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 私には生き別れの双子の兄がいる。  私のお母さんは生まれて間もないお兄ちゃんを連れて蒸発してしまった。  残されたお父さんと私は二人で暮らしている。  おばあちゃんはお母さんに対して怒っていたけれど、お父さんは何も言わなかった。 「お父さん。大丈夫?」  って言いたかったのに、お父さんの後ろ姿が何処か寂しそうで私は声を掛ける事がどうしても出来なかった。  何故、お母さんが行方をくらましてしまったのかは分からない。  生き別れの兄を知る手掛かりは、右の甲にある痣くらいだ。  母とも兄とも再会は出来ないだろうと思っている。    ☆  身支度を済ませて一階へ下りると、父が台所で朝食を作りながら私に振り返った。 「おはよう。睦月」 「おはよう」  私はお膳立てを手伝おうと台所の引き出しを開けて、箸を取り出した。塩や醤油などの調味料をダイニングテーブルに置いて行く。今朝の献立は目玉焼きのようだ。 「今日、高校の部活なかったよね?」 「うん。今日は部活ないよ」 「じゃあ、学校帰りにキャベツ買って来てくれないかい?」 「分かった」 「ありがとう」  お母さんが消えて十八年が経つけれど、今でも行方は分からなかった。書き置きも残されていなかったらしく、親族も母の奇行には戸惑いを覚えたらしい。母の性格上、そういった行動は考え辛いと認識されていた。では、何者かに拉致されたのではないか? という疑いも掛けられたが、真相は闇の中。拉致された、自ら消えた、その二つの説に討論する親族もいて、お父さんはそんな人達を煙たがっていた。  もしかしたらお父さんは当時、お母さんに捨てられたのだと思ったのかもしれない。もしくは、置いていかれたが正しいか。  私はお母さんがどんな人なのか知らない。お父さんにお母さんの話を振るのは今でもしてはいけない事だと思っている。  ただ、唯一、気になる事がある。お母さんが消えた日に見慣れない本が一冊投げ捨てられていた事を。本が無造作に開かれていて、装丁は不気味な程に真っ黒でタイトルも何も書かれていない、中身の文字は何処かの外国語で洋書という事だけが分かる本だったらしい。  お母さんは本を読むような人ではなかったらしい。ましてや、外国語に堪能である筈もなく、極々平凡な女性だったとか。    ☆  学校が終わりスーパーへ寄って、キャベツを買ってから帰宅すると、私は家にある開かずの間、倉庫の部屋で物を漁っていた。お父さんは片付けが出来ない人で収納系統の家具を家に置く事を嫌う。自分の読んだ本も本棚を買って収納せず、床に重ねて放置するタイプだったりする。  お母さんが消えた日に残されていた真っ黒な本。あれが気になっていた。何故、今になってあの本を思い出したのかは分からないけれど、無性に気になっていた。 「う、わーーーーっっっ!!!?」  使用されていない食器棚の上に置かれていた新聞紙の束が頭の上に降って来て反射的に叫んでしまう。衝撃はあったが、痛みはなかった。私は食器棚の上を見上げると、何か見覚えのない小さな本が一冊ひっそりと置かれていた。 「あれ?」  此処からでは背表紙しか見えないが、何もタイトルは書かれていない。それに漆黒と表現出来る程に真っ黒な本だ。私は爪先立ちになって、食器棚の上にある本を手探りで掴もうとする。そして、私の指にぶつかった本は床に音を立てて落ちた。衝撃で開かれた本を拾う。  装丁は真っ黒でタイトルは印字されていない。だが、中身は日本語ではない言語で埋めつくされていた。だが、私はその言語を目で追うとある違和感を覚える。 「人間界で生まれた赤子を異界で異形に育むまれた生き物は果たして人間と呼べるのだろうか。異界のモノを体内に摂取する事でソレは最早、人間と呼べる存在ではない。ソレに人間が抱く人情は備わっていないからだ。私はソレに少なからず情はある。名はセツという」  見覚えのない言語を私はすらすらと流れるように音読する。どうして私はこの言語が読めるのだろうか? と戸惑いを覚えた。  この本に書かれている内容は無機質で事務的な報告書のようでもあり、日記のようにも感じられた。本の中身は不可解な詳細ばかりが記されているようで、これ以上ページをめくってはいけないと自分の直感が警報を鳴らし始める。 「ソレの母体は死んだ。此方の言葉が読める上に聞く事も話す事も出来る稀有な人間だったのに、この異界の食物が合わなかったようだ。何も口にせず、衰弱して、とうとう飢え死にした。それでも人間の生命力は強いものだと感心させられる」  私はこの著者が何を残して言いたいのかが掴めなかった。文面からしてこれが物語とは到底思えないし、何かが可笑しい。最後のページを開いて、文字を読まずにそっと本を閉じた。瞬間、私の視界は真っ黒になる。    ☆  目を開けているのに真っ黒。真っ暗ではない。そこは光も音も匂いもない場所で自分の姿を視認出来るという不可思議な場所。一人この場所に残された状況と突如、起きた現象により自分の思考は急停止する。 「な……に、これ……? 私、さっきまで倉庫にいたよね!?」  思わず一人言を言ってしまう。元の場所に帰りたいのに帰り方が分からない。そもそもこの現象に名称をつける事すら謎という状況に冷静に思考を巡らせる事が出来なかった。 「誰か! どなたかいませんか!?」  この空間に自分以外の誰かがいないかを確認する為に叫ぶ。見る限り他者は何処にも見当たらない。足を進ませるが、何処までも何処までも続く黒と闇。そもそも現在地も掴めないし、進んでいるのかどうかすらも分からない。    ☆  体感で何時間歩いただろうか。足は棒のようになっていて、足の感覚が麻痺し始めて来た頃、目の前に黒ではない景色が見える。岩のような何かがぼやっと視界に入り、足をふらつかせながら歩を進ませた。 「あ……出口。え……嘘……」  この空間から出られたのはいい。出られた場所は穴の中の洞窟。見上げると、穴があり、穴の向こうには夕空が広がっていた。時刻は夕暮れ時な筈なのに、鴉は一匹も鳴いておらず、静寂過ぎる空間がより歪に映った。此処は何処なのか。少なくとも私がいつもいるような場所ではない事は空気で分かる。  あの本を読んでから何もかもが可笑しくなった。あの本を読むまではいつも通りの日常だったのに。まるで自分の運命をひっくり返されたような感覚にさせられる。  帰り方が分からない以上、戻る事も出来ず、進む他ない。気持ちは途方に暮れているが、この洞窟を登って地上に出ないと何も始まらない気がした。 「!?」  突然、背後に人の気配がして私は勢い良く振り返る。目の前には男性が音もなく佇んでいた。透けるように肌が白く、人形のように顔色を変えない能面のような顔。性別は違えど、同じ形をした人間な筈なのに、別の世界の生き物のような雰囲気を纏っていた。 「あの……すみません」 「?」 「此処は何処ですか?」 「質問をそのまま返そう。……お前は何だ?」 「わ、私は篠宮睦月といいます……」  怜悧の刃物のような声音で返答された事で肩をびくりとすると途端に動転する自分。そんな風に返されるとは予想外で不安感もあるからなのか、早口になってしまう。  穴の下層部からかさかさと音がする。何かを擦り合わせたような微かな音。その音が気になって下を覗くが暗くて良く見えない。 「何あれ!?」  目を凝らしてやっと見えたモノは見た事もない異形。浮世絵や日本画に出て来るような鬼のような化け物が何体も下層部に潜んでいる。崖を登ろうとしている様子が捉えられたが、手だと思えるモノが崖を引っ掻くだけで登れないようだった。 「きゃあっ!?」  目の前の男性は着物姿で裾がめくれる事も躊躇わず私を蹴飛ばした。体が浮遊感に包まれて首筋がひやりとする。更に下層部へ落ちる瞬間、右手を掴まれた。その掴まれた手だけで宙ぶらりんとなる私。下に落ちれば真っ逆さまにあの化け物がいる地に落ちる事となる。私は下を見ずに上を見上げた。不可解な言動に目を白黒させると、男性の手の甲が視界に入る。それは私と瓜二つの痣だった。 「……お兄……ちゃっ!?」  最後まで男性を呼ぶ事が出来なくなった。男性が私の手を握っていた手を静かに離したからである。私はそのまま最下層の穴まで落下した。 「ぐっ!? い、痛い……ッ!?」  受け身も取れずに地面に蹲るとはっとする。目の前には鬼の化け物がじりじりと私の方へと近付いて来た。座ったまま後ずさりをすると、背中が壁にぶつかる。退路を立たれ、逃げ場はない。袋小路に追い詰められた事を知ると、視線を感じて上を見上げた。男性が無機質な瞳で何の感心も示さず、私を見下ろしている。そうして、男性の姿が煙のように消えたのだ。 「……ぎゃっ……ぎゃぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!」  あっと思った時には腹部に激痛が走った。一体の鬼が私の腹に牙を立てると、また別の鬼が続いて私に襲い掛かって来た。飢えた鬼のように私の肉を引きちぎろうとする鬼たち。自分は鬼に食べられるのだと理解する事は出来たが、痛覚により思考そのものが強制的に奪われて口から漏れるものは言葉ではなく、断末魔だった。  鉄の臭いが自分の血液だとぼんやり気付く頃には私はもう虫の息で、鬼に自分の喉を牙で噛まれる感触を最後に私の意識は途切れた。
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