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仕事をしていれば気がまぎれたし、なによりも仕事にかこつけた「ストレス解消」もできたから、健壱が歌っていても、かろうじて聞き流せたかもしれないのに。
そして妻が……妙恵がいる時はもっと、いや、かなり快適だったから、気にしないでふるまうことだって、容易にできたのに。
妙恵が近くにいさえすれば、健壱は安心する。
ケロッといい子になり、一人遊びへと没頭する。
粗相も減るし、歌う回数も減る。
しかし、今は……。
自分にとって頼みの綱……もとい「最後の砦」であった存在、妙恵はもういない。ネットでは「緑の紙」と呼ばれている離婚届と、左手薬指から外された結婚指輪を渡されて、出ていかれたから。
そのため、しばらく育児に専念するというていで早急に出した育休届は受理された。いや、受理させたのだ。
上長に掛け合って、なかば「ごり押し」で。
自分が招いた結果が、良い結果に動くと思いきや、逆に天城を縛り付けてしまっていた。
職場での「ストレス解消」ができなくなり、かえって鬱憤が蓄積されていく。
息子を置き去りにして、実家へ戻ってしまった妙恵とは、連絡もつかない。
ここへ戻ってやり直してくれる、いわゆる「再構築」を打診するメッセージを留守番電話サービスに残したり、メッセージアプリに送信したが、既読表示さえつかないまま、時間だけが経過している。
まだ離婚していないんだから、離婚届も出していないんだからまだ夫婦なんだから、今は感情的になっているかもしれないけれど、まだ話し合いする余地はあると思うから、だから、だから……。
天城は往生際悪く、自らが身を落とした現実からどうにかして逃げ出したいと、抜け道を探している。
自分が蒔いた種だとわかっているけれど、頭を下げたくなかった。
俺が悪かったと、許してくれと乞う姿なぞ、妙恵と義理の家族に向かって、さらしたくないし、さらす気もない。
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