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人間は〝彼〟に、一つの重要な事実を教えてくれた。
たとえ力で相手にかなわなくとも、抗う意志さえあればそれは叶うのだーーと。そして、その事実を教えてくれた人間こそが、あの、煤と油で汚れた工場労働者だったのだ。
そう。
アリスに語った昔話にも登場した、最初に無辜の民に殺されかけた天使というのが、ほかならぬ〝彼〟だったのだ。
男は、即座にガードマンによって射殺された。だが、錆びくれたナイフを手に無謀な突進を試みたあの男が示した怒りと憎悪は、〝彼〟の心に小さな火を灯した。
火は、〝彼〟の中で瞬く間に大きくなった。こんなにも自分は神を憎んでいたのかと、〝彼〟自身驚くほどだった。弱きものたちを玩具のように弄び、顧みることのない絶対者。そもそも、奴がこんなふざけたゲームを思いつかなければ、人間たちはよりゆるやかに、平和のうちに進歩を遂げていただろう。何より……〝彼〟の仲間もむざむざ殺されることはなかった。
全ての仲間が殺され、いよいよ最後の一人となった時、〝彼〟はついに天へと翔んだ。そうして、いつもの定時連絡を装いつつ神に近づくと、二枚ある羽根の一つに過負荷をかけ、暴走させた。
音速すら超える飛行を可能とする天使たちの羽根は、クォークを中心とした素粒子を圧縮して作られている。そこに過負荷をかけると、素粒子はエネルギーに変換され、大爆発を起こす。
そうして生じた爆発による爆風は、不意を突かれた神と、悪意に蝕まれた眼下の大陸を塵も残さず消し飛ばした。爆発にそなえ、身体にガード処理を施していた〝彼〟自身、無傷では済まないほどだった。
こうして神は死んだ。〝彼〟が殺した。
その〝彼〟自身、すでに羽根の一枚を失い、天に戻ることはできない。天に戻れぬ天使など、もはや天使とは呼べまい。老いることを知らないだけの、一枚きりの羽根を持て余すだけの異形。それが、この地上における〝彼〟の今の在り方だ。
そんな〝彼〟だが、この新しい大陸での暮らしはそれなりに気に入っている。
人間は面白い。愚かで残虐だが、いまだ〝彼〟が知らない多くの感情を教えてくれる。何より、彼らは自分自身の生に常に真摯なのだ。彼らは自分の命を、暮らしを、自尊心をいつだって真剣に守ろうとする。それは時に、神が用意したゲーム盤を覆すほどの激しさを帯びる。その激しさを、〝彼〟は、心から美しいと思う。愛でたいと思う。永遠に。
一方で、〝彼〟はこうも思う。
彼らが生に厭き、他人を、とりわけ弱者を弄ぶようになった時は躊躇なく滅ぼしてやろう。それは、かつて〝彼〟が殺した神の醜悪な劣化版であり、連中を滅ぼさなければ、わざわざ旧大陸を巻き添えにしてまで神を屠ったことと辻褄が合わないからだ。
〝彼〟にはそれができる。何にせよ、羽根はもう一枚あるのだ。
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