3人が本棚に入れています
本棚に追加
――あなたは、あなたを何と呼ぶの。自分の正体を知っているの。
露に濡れた摘みたての勿忘草は、早朝の赤みの残る木漏れ日もろとも、質問をきらりと跳ね返した。
名前と色だけでなく、答えられないところまで、私と一緒。投げ捨てたくて慰めたくて、半端な力で花籠に放り、立ち上がる。木立の向こう、煮炊き場の煙が濃くなってきた。そろそろ朝食の時間だ。戻らなくては。
花盛りの勿忘草の群生を目印に、柔らかな土の斜面を下る。前回摘んだ場所、その前の場所と辿り、シダの新芽の生えた岩の陰で、行きに置いた水瓶を回収した。割れ目から水が湧いているのを、最近見つけたのだ。
湧き水探しは得意だ。辺りを見回すと、地下の水の流れが見えるような気がする。村には井戸があるが、なるべくなら使いたくない。この辺に水場が多くて助かった。
あと水袋があれば文句なしだ。栓ができて、肩に掛けられる。家のはなくなってしまったから、調達しないと。
歩幅を狭めて、再び歩き出す。ゆったりと羽ばたく蝶たちを手本に。その甲斐あって、平坦な地を踏む頃にも、水も花も減っていなかった。
蔦の垂れ幕を越えたら、もうすぐ家だ。日差しで真っ白な、村の小道に立つ――。
眩んだ目が、家の前で揺れる変な形の人影を捉えた。咄嗟に声が出る。
「ランドルフ」
幼馴染は片足立ちの姿勢からよろめき、慌てた様子で両手の木の椀を持ち直した。
「その呼び方、やめろって。怒った婆ちゃんにそっくりだぞ、『勿忘草の天使』様」
誰もが愛称で呼び合う仲の小さな山村に暮らしていると、本名の影が薄くなる。あえて本名で呼ぶのは、厳しく接する必要があるときだ。幼馴染の彼ときたら、こういうことが多すぎて、名前を忘れる暇もない。同い年で十五にもなるのに、呆れたものだ。
「じゃ、ランダル。ドア蹴らないでって何度も言ってるでしょ」
「足でノックしてるの。それより早く食おうぜ。冷めた粥は嫌いなんだ、何度も言ってるだろ」
何度言っても無駄だ。肩を竦めてドアを開ける。
水瓶と籠を下ろして花を活ける間に、ランダルは家主に構わず食卓に着き、朝食をせっせと口に運び始めた。湯気の立つ熱さにも平気な顔だが、最後には舌を痛がるのが常だ。汲んできた水が、まだ冷たいといいけれど。
「そうだ、ランダル――」
「ちゃんと食えよ」
水袋の余りがないか尋ねたかったのに、出端を挫かれた。
花瓶を棚に置きながら、首を傾げたのを見ていたらしい。幼馴染はわざわざ傍に来て、愛した花の影で微笑む「父と母」に話しかけた。
「おじさん、おばさん。こいつがこんなで、心配だよな」
「こんなって何よ。お粥は今からいただくわ。冷ましてただけよ。私、すっかり元気だもの」
ランダルが浮き彫りで縁取った木の板に、私が彩色を施した、両親の肖像。これを完成させるのに二月かかった。麓の町へ民芸品を売りに行った父と母が、窪地を渡る橋の崩落に巻き込まれてから、もうそれだけ経ったということだ。
最初は当然落ち込み、食欲もなかった。しかし、木工職人だった父を手伝っていたランダルから「父と母」の制作を提案され、母に教わった絵付けに熱中するうちに、しっかりお腹が空く体に戻っていた。
その過程を知る彼が、なぜ今また促しの言葉を発したのか、分からない。わざとらしく溜息をつかれた。
「俺、おまえを『天使』って呼んだよ」
一瞬の間を置いて、私は指摘の意味を察し、苦笑いで頷いた。
つまり、私らしくないと言われているのだ。さっき私はもう一度、彼をランドルフと呼ぶべきだった。
最初のコメントを投稿しよう!