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煮炊き場に食器を返して広場へ出ると、幌を巻き上げた馬車が店舗となり、井戸を囲んでいた。
橋の崩落後も、窪地を迂回する経路で町との行き来はできている。とはいえ時間がかかり、小さい馬車しか通れないので効率が悪い。そこで長老が呼び寄せたのが、山間地の移動販売にも慣れた、若かりし日の歴史調査仲間率いる行商隊だった。
売り子の明るい声に釣られて、村の皆も賑やかだ。子供達が早速、リンゴに齧り付いている。
私も布張りの小箱や、柄の模様が美しい櫛を眺め歩き、財布と相談した結果、新しい水袋を二つ買った。肩掛け用の織紐が綺麗だ。ランダルに在庫を尋ね損ねて良かった。
「ここの井戸は素敵だね」
商品を差し出しながら、少女が微笑んだ。購入のお礼代わりにしては熱意を感じる。眩しいふりで半ば目を伏せ、私は肩を竦めた。
「ただの古井戸よ」
「そう? とても惹かれるよ。何より井筒の、切り石」
「文字じゃなくて?」
商人の目には、井戸が違う物に見えているようだ。意外さに余計なことを口走ったが、少女はお構いなしだった。
「ただでさえ石材は高価だけど、あんな滑らかで整ったのは、さらに値が上がるね。この辺に石切り場があるの? 木工品の人気で潤ってる?」
「まさか。そんな資材やお金があったら、壊れた橋を……」
言葉がつかえた。知らず見開いた目を、少女が注視する。しかし折よく、次のお客に捉まってくれた。
私は踵を返した。そしてこの場で幼馴染の名と、一世一代の思いつきを叫びたい衝動を抑え、脇目も振らず工房へと走った。
***
「橋を、石で?」
工房から出てきた幼馴染は目を丸くし、払った木屑に咽込んだ。
「木よりずっと丈夫だけど、村が破産するぞ」
「知ってる。だから、切り出すの」
「そんな無茶な。うちに石工はいないし、この山のどこに石切り場が」
「階よ!」
井戸に文字が刻まれたのは、内容からして階が孤立した後だ。けれど踊り場の周りに石切り場はない。井戸自体は戦の前に、階の資材と技術で作られ、文字は戦後、踊り場に下りた石工が刻んだのだろう。木材しかないこの村での、最後の仕事だったかもしれない。
「そういや砦は石造りだ。ここからは木で見えないけど、麓の市で骨董屋に望遠鏡借りて見たことがある」
「じゃあ」
「じゃあ、何だよ。お願いしたら聞いてくれるとか思ってないよな? 運よく交渉できても、結局は金が要るぞ。身内じゃないんだ、ただで貰えるわけがない」
ランダルは目も合わせなかった。彼は悪戯っ子だが、職人らしく堅実で、冒険はしない。森を歩き回る私とは対照的に。そんな彼が言うのだ、空論と認めるべきだろうか。
しかし両親が亡くなった場所を、これからも大切な人たちが通る。考え得る限り丈夫で長持ちする橋でなければ、安心できない。
だから。
「私、天使になる」
やっと目が合った。
「井戸に書いてあることを話して、私がその天使ですって言って、もう一度『身内』になって貰えるよう頼むわ。階の人達が現実主義者だったら困るけど、この目が少しは、信憑性を高めてくれると思う」
「……それが上手く行ったら、おまえは本当に『勿忘草の天使』だな」
反対や「らしくない」が飛んでくると予想していたのに、外れた。言外に計画の甘さを指摘している? 眼差しも声も、皮肉を含んではいない。むしろ真摯だ。
納得してくれた――と、私は油断させられたのかもしれない。
「俺は、今のままでいてほしいけど」
そう言って背を向ける。それだけの手数で、彼はすぐにでも階へ向かう勢いだった私を、物の見事に踊り場に縛り付けた。
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