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思えばランダルを説得する必要などなかった。なぜ家に戻って来てしまったのだろう。
幼馴染は昼食にも夕食にも顔を出さず、私も探さなかった。朝汲んできた水が半分も減っていない。一人分の食器を返しに行くのが妙に億劫だ。もう遅い。怠けてしまおう。
天使になる方法を思いついたとき、重い鎖を解かれた気分だった。名ばかりの天使で在り続け、いつか皆からただの人間かと幻滅される、その不安と、不満。
実績を伴って天使になれたら、この何者にもなれないもどかしさ、私の悩みの種を根扱ぎにできる、はずだったのに。
ランダルが求めるなら、今のままでいたい自分がいる。
今朝、彼が両親の肖像にかけた言葉と合わせれば、ランダルの心の内は読める。だからこそ、揺れる。名ばかりの天使だと責める人はまだいない。理解者もいる。生きるのに支障はないのに、現状を乱し、未知の領域に挑む意味があるのか。橋だって彼の言うとおり、木製でも充分、実用に耐えるだろう。
やはりまだ、何者にもなれない。一つの何かになどなれるのだろうか。自分の中に、自分が大勢いる。どれが本物か掴めない。
ふと、気がついた。この渦巻くような底知れない恐怖に覚えがある――入れ子人形だ。
五体で一揃いなのは勿忘草の花弁に倣ったからとして、なぜ入れ子なのだろう。花形の箱にでも入れたら良かったのに。面白いから? 売れそうだから? けれど父は私から着想を得たと言った。この人形は、私なのだ。人形を避けていた私は、自分を嫌い、自分から逃げていたことになる……。
私は他者ばかり拠り所にして、一番手近な場所を探していない。
答えを求める気持ちが、人形を手に取らせた。
ゆっくりと一体ずつ、人形を開け、中の人形を取り出していく。勿忘草色の、絵の具の目を真っ直ぐ見つめ、一体一体に問いかけながら。
あなたは、何がしたいの。
あなたは、何になりたいの。
あなたは、何を成し遂げたいの。
あなたは、あなたを何と呼ぶの。
あなたは、あなたの……。
人形は喋らない。でも――答えは「私は」で始まるはずだ。「私」だけが変わらない。
勿忘草の天使、名ばかりの天使、特別な人間、ただの少女ミオ。私が囚われてきたそれら全ては、ただの呼び名にすぎないのかもしれない。数知れず生み出されるその中に、私の真実を表すものはない。
私の正体は、「私」。状況が、立場が、本名さえ変わることがあったとしても、それは揺るがない。
人形を一つに戻し、抱き締める。
やっと私が、私のものになった。
***
「らしくないわ」
まだ鳥も鳴かない朝まだき、ランダルは静かに戸口に現れた。私は二つの水袋を肩に掛けて迎え、蹴られなかったドアを後ろ手に閉めて、薄明るい空の下に立った。雲はなく、風も乾いている。
「長老には、らしいって言われた」
「私を心配して止めたこと?」
「止まらないのを見越して、長老に話をつけに行ったこと」
幼馴染は不自然に隠していた右手で、一枚の羊皮紙を差し出した。この山の古い地図だ。
「おまえの案、認めてくれたよ。階の最下層の門まで行けば、見張りがいるだろうから、そこで話してみろってさ」
「そこまで――うん、正に、あなたね。あなたが時間をくれたから、私も『私』を見つけたわ」
水袋を一つ外して差し出す。意図は話すまでもないと思ったが、彼が聞きたそうなので、あえて言葉にした。
「あなたがランダルでもランドルフでもあるように、私も天使でも、人間でもある。それだけだった。ねえ、『私』と一緒に来てくれる?」
「……仕方ない。『おまえ』と行ってやるよ」
ランダルは織紐を掴んで、背を向けた。麻の袋を負っている。かすかに炒った木の実と豆の香りが漂った。
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