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携行食と水で休憩しつつ、踊り場から遠ざかる。次第に土が固くなり、岩場が増え、人の手の入っていない木立の濃密な緑と花の領域は狭まっていった。そんな地を這うように、かつての道の端を示す塀が残っている。それと地図が私達を、時を押し固めて築いたような重々しい石壁と門の前に導いてくれた。
森を出ると即座に、声が響いた。
「止まれ。道に迷ったか。ここは何者も通さない、引き返せ」
長老の推測どおり、見張りの兵だ。五人。壁の上で弓を構え、こちらを見下ろしている。
さあ、ここからだ。震える手を胸の前で握り合わせる。最初に口にする言葉は決めてあった。
「私は『勿忘草』。この階と踊り場を、再び結ぶために使わされました」
「――『勿忘草の天使』か?」
呟き、年嵩の兵士が武器を下ろす。ほかの四人も同様にした。
まずこれを確認したかった。勿忘草の天使が、階でも認知された存在なのか。この様子なら、自己紹介はもういいだろう。
壁の影に入るほど近づき、門の前に立っても、制止はされなかった。
「この山の中腹で木の橋が崩落し、人命が失われました。悲劇の再来を防ぐため、石の橋を架けたいのですが、踊り場には資材も技術もないのです。どうか門を開いて、お力添えください。踊り場の民もあなた方の望みに、精一杯応えるでしょう」
「我々は、我々以外の地上の人間を信じていない。だが天の使いであれば別だ。踊り場はなぜ、君を天使と認めた?」
「それは目に勿忘草を宿しているから――と、特別な力があるからです」
風に靡いた髪の先を引っ張られた。自分でも、すでに後悔している。でも気づいてしまったのだ。この目の色を天使の証にしたくても、ここは壁の影の中で、日向は遠すぎる。壁の上の兵士に確認して貰う術がない。
「目か。それは、私をここから下ろすための嘘かもしれん。特別な力とは何だ? その目で我々の望みを見透かすか?」
思わず幼馴染を振り返る。頼れる彼も、さすがに困り顔だった。
こうなったらと思わせぶりに目を閉じ、堂々と考え込む。
相手は厳しいが、話を聞き、私を試している。私が天使であればと望んでいる。何かあるのだ、閉ざされた階の中で解決できない問題が。
そもそもあの予言は何なのだろう。階にも伝わっているということは、分裂が決まってから、階の中で告げられたのだ。それが後に、井戸に彫刻された。
今では言える。人に特別な力などない。奇跡的な功績が特別にしてくれるだけだ。予言ではなく、知っていた? 集落が再び一つにならざるを得ないのを。それなら理由は階にある。橋は石に拘らなければ、踊り場の力で架けられるから。
踊り場にあって、階にないもの? 道中の風景と、昨日花を摘んだ場所の記憶を比べてみる。花。そういえばこの辺りは勿忘草があまり咲いていない。階の上層はもっと少ないだろう。天使が名に冠する花なのに。
昨日のあの場所に、勿忘草がなかったら。その光景を想像し、階の特徴を当てはめていく。固い地面。岩場。
緊張に耐えかねたのか、ランダルが喉を鳴らして水を飲んだ。
水。水?
――水の流れが、見えない。
頭の中の森では、湧き水が見つからない。そうだ、勿忘草は湿った地面に咲いている。ほかにもそういう植物はある。無意識だったが、私はそれらと地形から、湧き水を探していたのだ。
「あなた方は……水不足で苦しんでいる。違いますか」
兵士はすぐには答えなかった。私は彼を見つめ続けた。溺れそうな沈黙。音を上げて狼狽えれば、正解でも疑われる。と、ランダルが私の髪を引っ張り続けて教えていた。
「踊り場には井戸があるな。水量は豊かか」
「はい。……実は私の力というのは、水に関することなのです。村の周りには湧き水もあります、私がお連れしましょう」
「水は生活の要だ。我々の先祖も井戸を構えて砦を築いたが、年々水量が減り、枯渇が近い。それを補えるなら」
長、と四人の兵士がざわめいた。
「いい。父とは前々から話し合っていた。……天使様の、勿忘草の瞳を拝みに行こう」
男は微笑し、兵士を促して壁の向こうへ下りて行った。
門が振動し、雨のように砂や埃、苔が落ちる。長年眠っていた扉を引き開ける人達の、呻きが聞こえる。
放心し、徐々に広がる扉の隙間に見入っていると、横から頭を叩かれた。
「もうすぐ大勢、おまえの目を観察に来るぞ。良い顔しろよ。嬉しいだろ? これで名実ともに、天使様だ」
「……そうね、嬉しいわ。天使の呼び名を喜べるようになって――天の正体まで分かったことがね」
門が開く。答える時間がなさそうなので、ランダルの声は大きな軋みにかき消されたことにした。
階と踊り場を繋いだことが、私を天使にしたのではない。人が喜ぶことをした。自分のために動いた結果でも。だから天使になったのだ。
天は、未知の幸福の象徴。その欠片を持ち出して、届けてくれるのが天使。階の石、踊り場の水――愛情。幸福はいつも、私達の周りにある。その運び手もまた、同じように。
門と共に心も閉ざしてきたらしい階の民も、いずれは知るだろう。信じるに足る天の使いが、どれほど近くに、どれほどたくさんいるのかを。
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