太郎(仮名)

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 太郎(仮名)は中学2年生だ。  将来は歌手を夢見る彼は、その自分の平凡な名前が嫌いだった。それだけで、自分が凡庸な人間だと言われている気がした。 (絶対に歌手になって、カッコ良い芸名を付けて、太郎なんてダサい名前と決別してやる!)  太郎は自室の机に向かうと、机上にノートを広げ、白紙のページにマジックで大きく『太郎』と名前を書いた。そのページを破り、丸めてゴミ箱に投げ捨てる。  必ず歌手になって太郎の名前を捨ててやる、という決意を現した、自己儀式的な行動だった。  突如、ゴミ箱の底から、 『捨テルナラ、寄越セ……』  という不気味な声がして、赤黒い手が伸び出し、丸めた紙を掴んだ。 「うわぁっ⁉︎」  太郎は悲鳴を上げ、2階の自室を飛び出し、1階の居間に逃げ込んだ。  当時は日曜日の夕方で、両親とも家にいた。  両親は3人用ソファに並んで腰掛けていた。  普段そのソファに親子3人で座る時は、真ん中が父親、左側が母親、右側が太郎の並び順だった。  だが今、太郎の物である右側の席には、赤黒く膨れた水死体の様な怪異がいた。   その怪異を、両親は「太郎」と呼んで団欒していた。 「ひぃっ⁉︎」  恐慌した太郎は、玄関から外へ駆け出した。気が動転する余り、靴も履かず裸足だった。  時期は真冬。暖房が効いた室内から着のみ着のまま、部屋着の長袖のスウェット姿で、アウターも纏っていない。  真冬の冷気の中、裸足に薄着で白い息を吐きながらも、太郎は寒さも感じず、何かに操られる様に道をひた走った。  気が付くと、自宅近くの浜辺に走り着いていた。真冬の夕方の海は、他に人影もなく閑散としている。  太郎はフラフラと、波が打ち寄せる海へ歩き出した。もはや、あのソファにいた水死体が『太郎』で、自分は代わりに水死体になるのが道理に思えた。  荒い波を被りながら、腰まで海に入水した時、 「何をしている!」  と背後から坊主頭の男性に羽交締めにされ、浜辺に引き戻された。男性は偶然、私服で海岸に散歩に来た、近所の寺の住職だった。  極寒の海水にビショ濡れで凍え切った太郎は、ガチガチと歯を鳴らし、半ば茫然としながら、同じくズブ濡れの住職に寺に連れて行かれた。  太郎は宿坊でシャワーを浴び、服も借りて着替えた。住職のジャージで、一回りサイズが大きくダボダボだった。脱いだ自分のスウェットは、住職が用意した持ち帰り用の袋に入れた。  一方住職も、自宅である庫裡で身を清め、袈裟に更衣した。  落ち着いた太郎は、本堂で住職と対座し、事の次第を話した。  話しを聞いた住職は「馬鹿者!」と説教した。 「仏教の念仏は、阿弥陀仏の名を呼ぶ事だ。斯様に名前は尊いものだ。親から貰った名前を無下にゴミ箱に捨てるなど、自ら命を捨てるも同然! 『トモカヅキ』に憑かれて当然だ!」  トモカヅキとは、死者に成り代わる怪異だ。その特性から、和製ドッペルゲンガーの異名を持つ。  太郎の地元は、まさにトモカヅキ発祥の三重県鳥羽市である。  あの水死体の怪異はトモカヅキで、名前を捨てた太郎と入れ替わろうとしたのだ。 「待っていろ」住職は一旦本堂を出て行き、戻って来ると、その手には達筆で『太郎』と書かれた半紙を持っていた。 「この紙を飲み込め!」住職は厳しく言った。「捨てた名前をその身に取り込む事で、トモカヅキを祓うのだ!」  やむなく、太郎は半紙を丸めて口に含み、何度もえずき、泣きながら飲み下した。  家に帰ると、トモカヅキは消えていた。
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