人魚姫の手紙

1/1
前へ
/1ページ
次へ

人魚姫の手紙

 本を読むのが好きで、隙間時間に読める本をいつも鞄に入れている。通勤電車の中、乗客がスマートフォンを見つめている最中私は本を開いていて、眼鏡の冴えない女が黙々と読書している姿はとてつもなく生真面目に見えるのではないかと思う。電子書籍が広がりつつあるけれどやはり紙の本が好きで、文庫本にはお気に入りのブックカバーをかける。  内容はとにかくなんでもよくて小説、エッセイ、詩集に実用書。文字を読み、頭の中をそれでいっぱいにしておきたくて読んでいる。もちろん空想の世界に夢を見てうっとりすることもあれば、知識を増やすことで賢くなった気分に浸ることもある。それもこれも、朝起きて食事をして仕事をするだけの毎日に、ちょっとした彩りを添えるためだ。  私はおそらくとても疲れていて、とても退屈している。読書は私の癒やしなのだ。  その日は仕事帰りにふらりと古本屋へ入った。  駅前の商店街の小さなお店だ。数が揃っているわけではないが時々買い取った本を入れ替えるから掘り出し物が見つかったりする。紙の本は買い時を逃すとなかなか手に入らない。まだ出会えていない本を探すのは宝探しのようだった。店に入るのはわくわくする。  久し振りに訪れたからか見慣れぬ本がたくさん入荷していた。埃っぽくて、少しかび臭い店内だが気にならない。むしろ落ち着いて過ごせる。一冊一冊気になった本を手にとってはパラパラとページをめくり、好みの本を探す時間は至福だ。楽しい。  ふと、変わった装丁の本を見つけた。キャンバスのような紙質のハードカバーに西洋の絵画風のイラスト。海の中の楽園が描かれているようで鮮やかな海水の青と朱色や白のサンゴ礁がとても美しい。タイトルは金の箔押しで『人魚姫』とあった。アンデルセンの童話だ。 「へぇ……素敵」  思わず声をもらして本を手に取った。ざらりとした感触はあったが傷みも少なく、強いて言うなら表紙は少し日焼けしている。経年劣化は感じるものの、大切にされていたことは間違いない。いつの本だろう。そう思い本を開くと、  ぱさり  と何かが落ちた。  封筒だった。手紙だ。  長封筒は薄桃色で、桜の柄は色褪せていてところどころ茶色い点の染みがある。いつの時代のものか。手紙には住所や宛名、差出人まで書いてある。ところが切手は貼られておらず、封も閉じたままだった。  差出人は『鈴代礼子』。  宛名は『高橋和也』。 (送られなかった手紙……?)  両面をじっくりと眺める。達筆で繊細な文字だ。書体といい紙の傷み具合といい時代を感じる。少なくともメールやSNSに馴染んでしまってからはとんと使うこともなくなった文化だ。子供の頃は雑貨屋で買ったレターセットで友人と手紙交換をして遊んだりもしたものだが、この封筒にはそういった遊びは感じられず、用件を伝えるために用意された生活の趣きがある。差出人は女性の名前だ。住所は商店街のすぐ近く。この本を手放した本人かもしれない。そして宛先は東北。ここからだと飛行機か新幹線を使う距離。気安く訪ねられる距離ではない。  片方の手には古びた手紙。  もう片方の手には『人魚姫』の本。  それを見比べてピンときて、どきどきした。これは、恋文ではないだろうか。『鈴代礼子』から『高橋和也』へと綴られた愛の告白なのでは。  人魚姫は悲恋の物語だ。その本に挟まれた手紙。そこにはきっと意味がある。  なぜ送らなかったのだろう。何が書かれているのだろう。届くことのなかったこの手紙にはどんな思いが込められているのか……。  想像し始めたら、まるで自分が物語の登場人物にでもなったような気分になった。だってこんな偶然滅多にあることではない。とんでもないお宝を掘り当ててしまった。  でも、興奮を覚える反面気まずさもあった。  これは誰かの秘密なのだ。見てはいけないものに触れてしまっている。その自覚はあった。だからこのどきどきとした胸のざわめきには好奇心と共に罪悪感が混ざっている。そして迷っている。見つけてしまったこれをどうするべきなのか。  見なかったことにする、店主に届ける、そのどちらかが常識的な行動なのかもしれない。でも私は悩みに悩み、そのどちらも選ばなかった。  封筒を鞄にこっそりと入れる。万引きのようで気が引けたがこの手紙に商品的価値はないはずだ。そして『人魚姫』の本を手にカウンターに向かう。本はその変わった装丁の分価値があるのかそれなりによい値段がしたが、痛む財布に涙を堪えて購入した。これは今から私が得る経験の代償だ。仕方がない。  私は、この手紙を持ち主に返すことにした。  差出人の住所を地図アプリを使って検索してみれば徒歩十五分という距離だった。やはり近所だからこの古本屋で処分したのだろう。そして前回この店に来た一月前に、少なくとも店頭にはこの本は置いていなかった。店主が出し惜しみしていたという可能性もなくはないが、この本が処分されたのは最近なのではないだろうか。  そんな探偵のような思考を巡らせながら地図を頼りに目的地を目指す。仕事用のパンプスを履いているので歩くのに適してはいないけれど、初めて通る道が新鮮で疲れは感じない。だんだんと住宅地へと入っていく。マンションと平屋がでこぼこに並び、小さな公園があって、すれ違う人々ものんびりとした生活感の漂う落ち着いた街並み。車二台がぎりぎり離合できるほどの道幅の通りを進み、角を曲がると工事の音がした。ガシャガシャと重機の動く金属音とバリバリと何かを破壊するような遠慮のない騒音。  スマートフォンの画面に表示された目的地のマーカーが近づく程にその音は大きくなり、それは目の前に飛び込んできた。  ビルとビルに挟まれた一軒家を、巨大なショベルカーが壊している。  防音と防塵のシートに囲まれた二階建ての建物はすでに半壊し、家の中が微かに見えた。昔ながらの瓦の屋根に木の梁。手前側の駐車場には作業員が数人いて、解体の手順を確認しあっている。  ショベルカーが頭をもたげ、ゆっくりと下ろす度にメキメキと家の悲鳴のような音が響いて家は崩れていく。  私の目的地はここだった。  地図アプリのマーカーは確かにここをさしていた。  そんなはずは、と思ったが、玄関の表札を見て愕然とする。分厚く古びた板に『鈴代』とあった。これで間違いない。  一瞬で夢から覚めた気分だった。  胸の高鳴る興奮は冷め、ああそうだ、現実はこんなものだといつもの自分が帰ってくる。  少し考えればわかることなのに。  『鈴代礼子』はこの本を処分したのだ。大切にしていたのであろうこんなに素敵な装丁の本を手放した。そこには理由があるはずで、その理由が、これだ。  彼女はもう、ここにはいない。 「はぁ〜……」  手紙を手に大きく息を吐いた。  そもそも、これが恋文だなんて思い込みからして恥ずかしい。  ただの文通だとか、相手は親戚だとか、そんな他愛もないものかもしれないし、或いは遺書、なんて可能性だってあるではないか。どうしてそこまで思い至らなかったのか。  『人魚姫』がそうさせたのか。  届くことのなかった手紙と叶わぬ恋の物語。それで安易な結び付けをするなんて、子供か?  ますます情けなくなって肩を落とす。そして私に残ったのは素敵な古本と古びた手紙。その手紙をどうするべきなのか、再び悩まされる。  今そこにいる業者に渡してしまおうか。工事を請け負っているのならば家主と関わりはあるだろう。面倒事を押し付けるようで気が引けるが捨ててしまうよりはずっといい。警察に届ける、なんて方法もあるがーーー 「あの〜。勘違いだったらごめんなさい。この家に何かご用ですか?」 「え?」  突然声をかけられて我に返る。  目の前にひとりの女性がいた。  私より歳上の(六十代くらいだろうか)小柄でふくよかな、どこか品の漂う女性だ。その人が少し不安げに、というか、警戒しつつこちらを覗き込んでいる。 「いえ! あの! すみません! 用というわけではなくて」 「……?」 「えっと、鈴代礼子さんという方がここに住んでいらっしゃるのではと確認に来たと言いますか」 「……」  ますます怪しまれている。 「手紙! 手紙を偶然見つけてしまって」  私は彼女に桜色の封筒を差し出した。彼女はきょとんとそれを見下ろし受け取って、まじまじと両面を確かめる。 「どうしたんです? これ」 「こここの本に挟まっていて」  鞄から取り出した『人魚姫』の本を見せると、女性は目をまん丸くして「ああ!」と驚いた。 「いやだ、そんな確認全然してなかったわ。母さんたらなんでこんなものを」 「お母様……?」 「ええ。鈴代礼子は私の母です。私は高橋と申します。ここは母方の実家で、取り壊すことになったので様子を見に来たんです」 「娘……さん?」  思わず目をぱちくりさせる。  話によると、鈴代家は長い間空き家になっていたらしく、取り壊すことにしたらしい。病気で入院中の母親に代わり、娘の紀子さんが家の片付けをしたのだとか。その際に家にあった本を古本屋に引き取ってもらい、その一冊がこの『人魚姫』だった。 「母はもう八十を超えていて、家族のことも家のことも、もうほとんど覚えていません。もうすぐ父のところへ逝くでしょう」 「あの……高橋さん、でしたよね。高橋って……」 「ああ、はい。高橋和也。この手紙を受け取るはずだった父ですね」  なんということだろう!  『鈴代礼子』と『高橋和也』は結ばれていた。  ならこの手紙は一体……。 「気になりますよね?」  ふふ、と高橋紀子が笑う。 「いえ、他所様の家庭の事情に首を突っ込む気は……」 「私も気になります。でも封は開けずに、父の仏壇に供えようかしら」  先に逝ってしまった王子様。  手紙の内容を最初に知るべきは、確かにその人なのかもしれない。  いつか人魚姫を天国で迎える時に、笑い話にでもするのだろうか。 「ありがとうございます」  高橋紀子が言う。 「とても素敵なご縁だわ。その本、大事にしてやってくださいね」  私が抱える『人魚姫』を見て言う。 「はい。大事にします」  いつか私もこの本に手紙を挟んでみようと思う。  恋がしたいな、なんて、また簡単に感化されながらうっとりした。  壊される家を見つめながら考える。  物語は、本当はそこら中に転がっていて、私は見えない本の中にいるのではないか。  とりあえず、家に帰ったらこの『人魚姫』を、丁寧に大切に読んでみよう。鈴代礼子の手紙の中身を、想像しながら。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加