あの日のノート

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 あとから思えば、あの人のことをとても愛していた、失いたくなかった……なんて感傷を、私は絶対に許さない、と決めていた。  だったら、後悔しないくらい、一緒にいる時間に相手を大事にすればいい。  そう思っていたのに……。やっぱり人は弱いもので、大切な人を失ってから、思うのだ。  あの人のことをとても愛していた。失いたくなかった。  仕事が終わり、外に出るとすっかり陽が落ちていた。いつの間にか日照時間は短くなり、夜は肌寒くなっていた。  スーパーに寄ると、お鍋の献立を勧めるコーナーが大きく作られていた。 『家族でも、カップルでも、一人でも!おいしいお鍋を囲んで』  手作り感満載の大きなポップが立ててある。  一人では囲めないと思うよ。  下手なポップに、心の声で話しかけた。  あの人は水炊きが好きだった。  すき焼きに挑戦したこともあったが、彼はさっぱりした味を好む人だったから、 「すき焼きは……もういいかな」 と遠慮がちに言った。  ああ、思い出す人、間違ったわ、私。  ふと、目の前にあの人の幻影が現れて、一生その幻影を見ていられたら、私は幸せなんじゃないだろうかと思うことがある。  あの人が私の前からいなくなって、二年近く経つ。  私はすき焼きの材料をカゴに入れ、レジに向かった。  陽翔(はると)はお肉が牛肉ではないことに、なにも触れない。 「まだ卵ある?」 「うん。持ってくるよ」 「自分で持ってくる。花梨は?いる?」 「私はいい。もうおなかいっぱい」  陽翔は冷蔵庫に卵を取りに行った。  その細い体を羨ましく思う。 「いいな、陽翔は」  太らなくて。 「なにが?」 「いや、なんでもない」  陽翔が私を好きになってくれたのは、ほとんど奇跡だ。  陽翔はいわゆる『今どき』の若者だ。  細くて、センスがよくて、お給料は少ないがおしゃれで、清潔で、肌もきれいだ。見た目は中性的だが、細マッチョで力もある。眉のお手入れもきちんとしている。どうもYouTubeで学んだらしい。大抵のことはインターネットのなにかしらのアプリに教えてもらえばいい、という価値観で、料理もなんとなくできるし、イマイチの仕上がりだが、ワイシャツにアイロンもかける。  陽翔のその、現実を正しく進む力を、私はとても尊敬している。この人は堅実に生きていく人だと思う。間違わなくて、良心的で、自分も他人もほどほどに大事にする。良いことだ。それはわかる。  ただ、私の心の中に割れたお茶碗の欠片のような、時々刺さる何かがあって、それが刺さるたびに、陽翔のその正しさには私は釣り合わない、と世間の目が評価しているように見える。  ヒロ君とはずいぶん長くつきあった。  結婚したいと思ったわけではないが、ずっと一緒にいたいとは思っていた。  ヒロ君とは営業で伺った会社で知り合った。その会社とは交渉が成立せず、取引はなかったが、何度か訪問して話をしたとき、ヒロ君が 「休日はできれば部屋から一歩も出たくないので、疲れていても前日の夜、食料や日用品を買いだめします」 と言ったことに、私が激しく共感したという出来事がきっかけだった。  あっという間に私達は恋愛関係になり、休日は交代でどちらかの部屋でまったり過ごした。  一緒に映画を観て、延々とどのシーンが一番好きかを語った。  ノートにくだらないことを共に書き殴って、笑い合った。  布団を干しておいたら雨が降ってきて、慌てて二人で取り込んだ。  そして、さっぱりした味を好むヒロ君に合わせて、塩味で食事を作った。  私はその時間が永遠に続くことを望んだ。それはささやかな希望だから、きっと叶う。そう信じていた。大それた願いじゃなんだから、神様は私からこの幸せを取り上げたりしない、と。  仕事が休みの土曜日。街は人が多くて、私はすぐに疲れてしまった。  陽翔は元気そうだったが、 「あそこのカフェに入って休もうか」 と私の顔色を見て、気遣ってくれた。  隣のテーブルがとても近いカフェで、私は椅子に座っているのに、体の力が全然抜けず、ラテの味もわからなかった。  正面に座る陽翔はすっかりリラックスしていて、テーブルに肘をついて、私との距離を詰めた。 「あのさ、花梨。再来週の日曜日、予定ある?」  陽翔はニコニコしていた。 「特にないよ」  私に友達が少ないことを知っているのに、陽翔は悪気なく、そういうことを尋ねる。陽翔なりに気を利かせて予定を訊いてくれるのかもしれないので、私は一瞬でも陽翔に嫌味を言われたような気持ちになった自分を恥じる。陽翔は正しくて、私は底意地が悪い。 「俺の両親が来るんだけど。花梨を紹介したい」 「え……」  それは……ずいぶんハードルの高い提案だ。 「母親が彼女に会わせろってうるさくてさ。花梨のこと、かわいいって言ったら、喜んじゃって」 「はは……かわいいって……。実物を見たら、がっかりされるよ」  とりあえず笑ってやり過ごそうとしたが、もう思考はストップしていた。  心の中の欠片が、トゲのように刺さって、痛い。チク、チク、と私の肉を刺す。血が滲む。 「花梨さ、もっと自信持ちなよ。花梨はかわいいし、仕事をがんばってるし、家事もできる。ちょっと自己肯定感は低いけど、絶対に他人の悪口を言わない。外見も性格も良いんだよ。俺の自慢の彼女だよ」  陽翔はどこか必死だった。 「でもさ、そろそろ年齢を考えないと。できるだけリスクなく子供を産める年って……リミットあるし」  それか……。  それが正しいことを、私はよく理解しているつもりだ。  陽翔は正しく、堅実に生きる人。コミュニケーション能力が高くて、友達が多くて、仕事がデキて、身なりもきちんとしている人。困難に遭ったら、インターネットで解決策を探して、対処できる人。  そして、私をきちんと好きでいてくれて、きっと『正しく』歩めるようにしてくれる人。私の手を引いて、時々振り返って、ドキッとするほどかっこいい顔に笑みを浮かべて。  ヒロ君と別れてしまった原因は、遠距離恋愛だった。  ヒロ君が転勤になり、頑張っても月に一度しか会えなくなってしまったのだ。  部屋から一歩も出ない『まったり生活』は、新幹線の時間を気にする、忙しない時間に変わってしまった。  当たり前に会えない生活は、私の心をどんどん追い詰めた。  ある日、仕事の帰りに見上げた空に、満月が輝いていた。私はヒロ君のスマホにメッセージを送った。  その行為は、『遠距離なんかに負けたくない、気持ちは繋がっている、一緒に些細なことに感動だってできるわ!』という私の意地だったと思う。 『ヒロ君、空を見て!一緒に満月を見ようよ』  すぐに既読になった。  ほら、大丈夫。私達は離れない。 『今、空を見上げてる暇がない。こっちは雨』  その返信は、ギリギリで保っていた私の心を折るには充分だった。  本当は、いつかこうなると予想していた。  時間というものは、このうえなく残酷なものだ。  月に一度、ヒロ君が私の部屋に泊まり、翌日の昼間に帰ってしまったあと、私は毎回、号泣しながらシーツや枕カバーを洗濯機に放り込んだ。窓を全開にして、空気を入れ替えた。ヒロ君が使った食器を箱に入れて、納戸の一番奥に片付けた。   そうしてヒロ君がいた痕跡を泣きながら消した。それを毎月、毎月、繰り返した。ヒロ君がいなかったことにしないと、その先を生きていけなかった。  寂しさが限界を越えていた。  ヒロ君を失いたくない。でも、もう無理かもしれない。  離れた場所で、一緒に満月を見られなかったあの日。私は好きな人を手放すことを決めた。  陽翔が友達とフットサルをする予定がある、と言っていた休日。私はずっと気になっていた部屋の断捨離に丸一日を充てることにした。  もう絶対読まない経済系の本。有名人の貴重なひと言を集めた新書。昔好きだったCD。  納戸に片付けたままの防災用品のリュックを取り出すと、その後ろに箱と一冊のノートが押しつぶされた状態で置いてあった。  あ……。これは……まあ、処分でしょう。  割れたお茶碗の欠片がずっと私の心にあるような気がするのは、このお茶碗が気になっていたからだろうか。  私は箱をそっと開けてみた。以前、ヒロ君が使っていたお茶碗と湯呑みは割れていなかった。  私はどこかホッとして、今度はシワでよれてしまったノートを取り出した。  開くと、私は一瞬で、あの、居心地の良かった二人だけの休日に引き戻された。  二人で描いた、下手な犬の絵。お互いの似顔絵。二人ともとても絵が下手だったから、説明書きが沢山書いてあった。 『笑った花梨』 『目尻のシワが好き』 『起き抜けのヒロ君の寝癖。これはリアルに上手い』 『アイラヴユーだ〜!』 『苦手なブロッコリーを多めに茹でるのはやめて』 『花梨の寝相が悪くて、眠れない。詳細は図を参照』  ずいぶんとくだらないことを何ページも書いてきたものだ。  私は一人、くすくす笑った。イラストを勉強しようかと、本気で思った。  パラパラっとめくっていくと、ノートの後ろ半分は空白だった。  もうなにも書いてないと思い、ノートの小口の部分に親指をつけ、サーッとめくって最後のページまでいった。  開いた裏表紙の裏には、ヒロ君の文字があった。  花梨へ   今、花梨はお風呂に入っています。  僕はこのあと花梨に転勤の話をします。  きっと花梨は長い時間、泣くでしょう。  まだプロポーズはできないし、花梨の仕事のこともあって、遠距離でのつきあいになってしまうことは、僕も寂しい。  別れたくないからがんばるけど、花梨は寂しがりやだから、もしかしたらいつか僕達は終わってしまうかもしれない。  でも、僕は絶対に終わりたくないと思っている。  休日にどこにも出かけない、二人だけの時間と空間が、ずっと続きますように。  もし、望んで叶うなら。   私はあのとき、一緒に満月を見たかった。  そして、 「僕は花梨と離れたくない」 とひと言、言ってほしかった。  それだけで良かった。 『花梨、なにしてる?このあと、みんなで呑みに行くんだけど、よかったら、来ない?花梨の気分でいいよ』  ピロン、と鳴ったスマホの画面を見ると、陽翔からメッセージが届いていた。  健康的で、明るくて、友達に囲まれていて、充実している陽翔。対して少し内気で、人見知りで、籠りがちな私。そんな私に、決して無理を言わない優しさが、陽翔にはある。  もしヒロ君とあのまま一緒にいたら。それはそれで幸せだったかもしれない。でも、それはどこか危うかったんじゃないだろうか。  外界を完全にシャットアウトした、二人だけの世界にどっぷり浸かる生活。その不健康さ。濃密さ。狭くなっていく視野。  もしどちらかが精神を病んでも、一緒に病んでいくことを選ぶような、そんな怖さ。  好きな人と自分だけがいて、好きな物と好きな味だけが存在して、傷つけるものや、心をざわつかせるものは排除できる、小さな世界。私はその世界を守りたかった。ずっとその世界にいたかった。  でももしそれが実現していたら、今頃、私達は社会に適応して生きていただろうか。  時が経ち、健全な陽翔のそばにいるようになって、それがようやくわかるようになった気がした。  私は陽翔に電話をかけた。 「フットサル、終わったの?」 「うん。普段、運動不足だからさ。もう足がガクガクだよ」 「ふふ。呑み会だけど……」 「あ……来なくてもいいよ。あんまり得意じゃないよな」 「……ちょっと身構えちゃうかもしれないけど。陽翔が隣にいてくれれば」 「もちろん!」  陽翔の声が弾んだ。 「じゃあ、店名と場所、スマホに送るから」 「ねえ、陽翔」 「ん?」  私の心から、あの欠片がポトっと床に落ちた感覚があった。 「こないだの話だけど」 「こないだって……両親の?」 「幻滅されるかもしれないけど。陽翔のご両親にご挨拶できるかな」 「……無理しなくても」 「無理してない。陽翔が手を繋いでいてくれれば」  私にはその光景が浮かんだ。  陽翔は私を外に連れ出してくれる人だ。私の手を握って。決して強引にひっぱったりはしない。時には守ってくれるし、助けてもくれる。それでも、健全で、太陽の下を歩いて、社会の中で私と共に生きたいと願ってくれる。 「親の前で?手ェ繋ぐの?マジ?ええ?」  勘違いした陽翔は、一人で動揺と興奮を行き来していた。  一冊のボロボロのノートの表紙を、私はそっと撫でた。  このノートは、未来に踏み出す勇気を、私にくれた。  ヒロ君に伝える術は、もうない。  私はあなたをとても愛していた。失いたくなかった。  その気持ちをずっと胸の奥の奥にしまって、どこかであなたが笑って生きていることを願う。  
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