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お金を貯め、若干の無理をして地元から少し離れた場所にある音楽系の学校に進学を決めたのはいいが、楽器の練習のためには防音室が必要だ。
学校からそう遠くない範囲で楽器可の物件となると、どこも家賃が高く到底無理。
どうにかならないかと不動産屋に泣きついたところ、渋い顔をしながら「あまりおすすめ出来ませんが……」と書類を見せてくれた。
場所は学校のすぐ近くで部屋の間取りも申し分ない。
それなのに家賃が以上に安い。
あまりの安さに何度か桁を確認したほどだ。
ここまで安い上、おすすめ出来ないとなると理由はなんとなく想像がつく。
「これって"事故物件"ってやつですか」
私の問いかけに不動産屋は小さく頷いた。
ああ、やっぱり。
でも背に腹はかえられぬ。
覚悟を決め「是非ここを見せてください」と伝えた。
実に嫌そうに顔を強張らせた不動産屋とともに部屋を見に行くと、そこはごく普通のマンションだった。
中はしっかりとした作りの防音扉に二重窓、水回りも綺麗でまさに理想通りの部屋。
特段嫌な感じもせず、言われなければ事故物件だなんて気付かない。
ただ一つだけ懸念点があるとすれば、なんだかうっすらと酒のような匂いがする。
清掃にアルコール系の洗剤でも使ったのだろうか。
不動産屋はキョロキョロと警戒するように視線を動かしながら「どうですかね、やめておきます?」と聞いて来た。
「とんでもない!ここにします!」
もう私が住むべき部屋はここしかない。
私の言葉を聞いて不動産屋は困ったように引き攣った愛想笑いを浮かべていた。
殆ど即決で契約を進める途中、不動産屋から「告知事項があります」と言われた。
むしろ聞きたくないような気もするがこの先の音楽人生のためならなんだって聞きましょうと、妙なテンションの昂りで前のめりに「はい、なんですか!」と答える。
「ええと、この部屋なんですが、入居にあたって守って欲しいことが二つありまして……」
「はい!」
「必ずクローゼットに日本酒と塩を置いてください」
「え?クローゼットの中にですか?」
「ええ、クローゼットの中にです。日本酒の銘柄はなんでもいいですし、瓶でもパックでも構わないので。お塩も何でも大丈夫です。ただし、できるだけ多めに」
「多めに」
「はい。多めに」
酒と塩と言えば魔除けやお祓いのイメージがある。
流石は事故物件だ。
しかしそういうものはコップ一杯分とか、小皿の上に盛り塩とかを部屋の隅に置いておくのではないのか。
ふざけているのかと思いきや不動産屋は大真面目な顔をしている。
「それからもう一つ。クローゼットの中に他の食べ物や飲み物は一切置かないでください。それ以外であれば何を入れても、どんな使い方でも大丈夫です」
まあでも猫ちゃんとかは入れちゃダメですよ!ペット不可ですから!と不動産屋は付け加えた。
どういうジョークだと思いつつ、書類を書きながら「わかりました!」と勢いで返事をした。
入居当日、引っ越し業者が荷物を次々と運び入れた後、両親に手伝って貰い荷解きを進めていると内見の時に感じたアルコールのような臭いは大分薄れていた。
事故物件は清掃が大変で、とくに染み付いた臭いや汚れを取ることに最も苦労する……なんて話を聞いたことがあった。
きっとそのために消毒をしたり消臭剤を使用したりした名残りなのかもしれない。
両親は「何も事故物件に住まなくても……」と難色を示していたが、実際に部屋を見てみるとあまりに普通の良部屋だったためか普段と変わらぬ様子で荷解きを手伝ってくれた。
内見の時は防音設備の方にばかり気を取られあのクローゼットをちゃんと確認していなかった。
荷物を入れるために両開き戸を開けると、ぶわっとむせてしまうような酒の臭い。
中には一升瓶と、有名な〇〇の塩と書かれたパッケージのビニール製の袋が端の方に置いてあった。
ご丁寧に中の壁に『日本酒と塩以外の飲食物をここに置かないでください』と貼り紙までしてある。
これには私も面食らった。
先程まで和やかだった両親も一瞬で静かになる。
勢いで契約してしまったがこの異様な光景を目にすると、後悔の二文字が頭を過ぎる。
それより後ろで黙っている父と母が何か言い出しては不味い。
「わー、ここに置けばいいんだねーなるほどねー」
こんなもの気にしてませんよといった調子で私は、買っておいたちょっとお高めの地元の酒とネットで注文したお得用清めの塩セットをさっさとクローゼットの隅に並べて置いた。
部屋に漂う酒臭さのもとはこのクローゼットだったのかと内心緊張していたが、これから始まる新生活のためにぐっと堪えた。
酒の臭いがつくと困るので荷物を入れるのは諦めて、そのままクローゼットを閉め「後で収納ケース増やさないとね」と笑顔で両親の方を振り返る。
明らかに両親のテンションはガタ落ちしているが、どうか何も言ってくれるなと無言で笑顔の圧をかけ続けたところ両親も察したようだ。
「まあその、一旦棚から組み立てようか」
「そうね、そこに全部しまえるかもしれないし」
クローゼットから視線を逸らしいそいそと作業に戻っていった。
不動産屋も「二つのことを絶対に守ってくだされば大丈夫です」と言っていたし、とにかく酒と塩を多めに置いてあのクローゼットには触れなければいいのだ。
元々この部屋にはクローゼットなどなかったと思うことにしよう。
引っ越し作業を終えて、両親は心配そうに何度も私の方を振り返りながら地元に帰っていった。
日中、換気をしていたら酒の匂いはすっかり気にならなくなったし、言われた通りあのクローゼットには酒と塩も置いた。
なんならクローゼットが少しでも見えないように扉の前にはしまいきれなかったものの入った段ボールを重ねて置いた。
きっと大丈夫。念願の音楽漬けの生活が始まるのだから、こんなことでへこたれてたまるか。
新居で過ごすソワソワと落ち着かない気持ちと僅かな不安、作業による疲れが混ぜこぜになり、妙な高揚感に包まれたままその日は眠りについた。
朝起きてから昨晩何事もなく眠れたこと、部屋の中は寝る前と何も変わっていないことを確認して一気に生活が現実みを帯びて来た。
一応クローゼットを開けてみたけれど酒の臭いがするばかりで何があるわけでもなかった。
ただ、どうしてこうも酒の臭いがするのかと気になって最初から置いてあった一升瓶を注意深く見てみると、中身が中途半端な量であることに気付いた。
塩の方も袋と内容量が見合っていない。
どちらも封が開いているわけでは無さそうだが……。
もしや中身だけ減ってる?と気付いて恐ろしくなってクローゼットを閉めた。
酒の臭いがあたりに残っている。
段ボールを元に戻し、クローゼットを見えないようにしてから換気のために窓を開けた。
数日経って学校が始まり、新しい生活は目まぐるしく過ぎていった。
新入生は思っていたよりも年齢層が幅広く、これまでの経歴も趣味も様々で楽しかった。
音楽に関して熱っぽく語らう時もあれば、くだらないバカ話で盛り上がる時もあり毎日が刺激的だった。
制作課題や発表、練習やレポート、バイトに追われて忙しい日々を送る中、私はすっかりあのクローゼットの存在を忘れていた。
ある晩、課題のために慣れない作詞をすることになり頭を抱えていた。
キーボードを弾いて鼻歌を交えながらああでもない、こうでもないと言葉を書いては消してを繰り返し、もうダメかもしれないと意気消沈しているとゴトン!と室内に鈍く大きな音が響き渡った。
びっくりしてすぐに音のした方を振り向くとクローゼットの戸が開いている。
驚くあまり声すら出せずクローゼットを凝視していると、酒瓶が倒れていることに気付いた。
頭の中で、そうかさっきの音は酒瓶が倒れた音なんだ、倒れて戸にあたって開いたんだ!と瞬時に情報が駆け回る。
だがしかし。
何故重い酒瓶が倒れたのか。
地震でもあったならわかる。それか何かがいて……たとえばほら、虫とか……いや、瓶を動かすほど大きな虫がいるのか?それはそれで考えたくない。
人間、ピンチの時は脳がフル回転するものだ。
様々な事象や可能性が一瞬にして考え出される。
一旦落ち着こう、瓶が割れてないか確認しないと。
恐る恐る立ち上がり近寄ると、一升瓶はただそこに黙って転がっている。
クローゼット内の壁に貼られた『日本酒と塩以外の飲食物をここに置かないでください』の貼り紙も久々に目にした。
警戒しつつそっと瓶に手を伸ばしてみたが、虫の影もなく、割れもヒビもなかった。
少し安心して持ち上げてみて違和感を覚える。
あれ、空っぽ……。
元々置いてあった一升瓶には中途半端な量が入っていたはずだ。
それなのに今手にしている瓶は空っぽで、中身が一滴も入っていない。
溢れたのかと思ったが床は濡れておらず、それどころか蓋もきっちりしまっている。
嫌な予感がして視線を塩の袋に向ける。
そちらも明らかに量が減っていた。
ビニールで出来た袋はどこも破れていないのに、中身がごっそり減ってスカスカだ。
蒸発した?湿気でカサが減る?どういうこと?
すっかりパニックになり、自分が持って来て置いた地元の酒を手に取り確認した。
中に入っていた酒が少ないように思う。
元がどれくらいだったか、自分の記憶を信用出来ない。
清めの塩の方は不透明な紙袋に入っているから中身の量がどれほどかわからないため何とも言えないが、確実に元々置いてあった酒と塩は無くなっている。
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