社畜女子と店主

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社畜女子と店主

正直なところここ数年、黒木(くろき)月子(つきこ)に本を読む時間は無い。 読むとするなら仕事関連のそれだけで、万が一読書の時間が取れるのだとしたら寝ていたい。 だからその日、雨に追い立てられて駆け込んだ軒先の古本屋には十中八九、月子が読む本は無かった。 必要なら正規の書店に行くのが妥当だからだ。 大粒の雨が月子が軒先に入るのを待っていてくれた様に激しさを増して行く。 「……そうよねぇ、だろうねぇ」 本当に、思い出せないくらい……いつぶりかの定時上がりだったのに。 すんなり時間を使わせてくれないのが、運命なのだろうか。 前髪から落ちる雫が鬱陶しくて鞄からハンカチを取りだして押さえた。 どうしようか、しばらく待って駅直通のデパ地下でお高めの晩御飯を買って帰ろうか。 雨を遮ってくれるオーニングテントに落ちる重い雨粒の音。 濡れたアスファルトの匂い。 (……うん、こんな風にのんびり立ってるのも、久しぶりだな) 毎日、忙しなく動いているから。 月子が音や匂いを深く感じる事は少なかった。 何分後にあの店舗へ、それが終わったら次の店舗のシフトの穴埋めを……そんな風にしていたら些細な事を感じている様でいて、忘れているのだ。 チラリと振り返った古本屋の中は、こじんまりとしていて、並んだ本棚の隙間の通路が見えるだけだ。 お客さんも居ないみたいで、奥にあるであろう会計スペースも見えなかった。 古書を扱っている風でもなかったけれど、コミックはなさそうだった。 入ってみようと思ったのは、子供の頃を思い出したからだった。 実家の近くの古本屋はもっと大きな所だったから、コミックもCDもあったりした。 用もないけど休みの日に覗いてみたりして、よく時間をつぶさせて貰った。 あの空気感と、独特の古本の匂いが懐かしくなったのだ。 あの頃とよく似た香りだ。 引けばカラカラと音のする、軽い硝子扉をスライドさせて足を踏み入れて思った。 無音の店内は、空調の音が微かにするだけの静かな空間だった。 カツ、と月子の足音が良く響いて、少し恐縮しながら進む。 雨に濡れたパンツスーツの冷たさがよく効いた冷房で寒い位だ。 これは、長居をすると風邪を引いてしまうなと思いながら、月子は棚に並んだ本に目を向けた。
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