名曲喫茶

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名曲喫茶

名曲喫茶琥珀(こはく)は、都心のS駅から5分という人通りの多い雑然とした場所にあったが、店の看板の目の前の階段を地下へ降りると、異次元へのトンネルを抜けたような別世界だった。 200席もあるフロアは高い天井にシャンデリアが輝き、店内に優雅に流れるクラシックが空気を純化させていた。 その店は、文芸同人誌などの会合には最適だった。 はじめは作家仲間との集まりで、月に1回来店していた。はじめを入れて5人がいつものメンバーで、男3人、女2人のうち3名がプロデビューを果たしていた。 後の2名はプロ志望ではあるが、同人誌界では結構名の通った作家だった。 集まる目的は、主に互いの作品を批評し合うこと。友人ではなく作家として、歯に衣着せぬ批評をすることが身上だった。 それ以外は最近の小説の動向や新人作家の作品などについての雑談で、文学の話題に終始していた。 プロの時代小説作家の大森直子は、前回の直川賞が2作品とも時代、歴史小説であったと指摘し、女性時代小説作家の受賞が増えていると言った。 その大森の短編が、今回の合評会の題材だった。 はじめは時代小説は好きだが、自分で書くには勉強不足だと自覚していた。よにかく、徹底的に時代考証しなければ書けない。 そんな苦労の跡をにじませることなく、大森の作品はごく自然に江戸時代の物語を描いていた。 凄いなとはじめは感心し、同じ作家としてこの差は何だろう。自分はデビューしていながら、未だ暗中模索の最中だというのに。 「片瀬、この間スランプで思うように書けないって言ってたけど、スランプは脱したのか」 仲間の一人でミステリー系の小説を書く川越が尋ねた。 「片瀬さん、スランプなの? 次回に合評する作品は、片瀬さんのでしょ。書けていないの?」 「ごめん、まだ書いていないんだ。次回は別の人にしてくれるかな。でも、脱出するきっかけはつかめそうなんだ」 そう言ってはじめは、「運命」から送られてきたダイレクトメールの話をした。 皆、興味深そうにはじめの話を聞いていた。話が一段落すると、それぞれ思ったことを口にした。 「それ怪しくない? 何か目的があって送り付けてきたんでしょ。おめでとうございます、あなたが当選しましたというのは、大抵勧誘の常套句ね」 「俺の所にはそんなダイレクトメール、来たことないなあ。作家と認定されていないのか、もしくは壁にぶち当たっていないからか」 「ミステリー作家としては、大いに興味をそそられるね。宗谷岬郵便局? 遠いと言っても国内なんだから、旅行がてら行って調べてみたら」 「片瀬君、その本に小説書いて返送したんでしょ。それからどうなるかが問題よ」 はじめとしては、解決の糸口を辿るため宗谷岬まで行くという提案に少々心が動いたが、それより、運命の本を返送してその先どうなるか様子を見ることにした。 運命がダイレクトメールという形で扉を叩いたのだという解釈に、彼の中で落ち着いていった。 そして、彼が壁に囲まれた空間から扉を開いて運命に従っていくというのが、彼の小説のプロットであり、はじめの人生の成り行きでもあった。 「どうなるのかなあ」 はじめはコーヒーを一口飲んでその苦さを味わいながら、ビロード張りのソファの背にもたれて、店内に流れるビバルディの「四季」に耳を傾けた。
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