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ーー
「野村さん、今日の日誌頼んだ」
放課後の二人きりの教室で、田辺くんは私に学級日誌を差し出した。
「はい」
前髪で顔を隠すと、田辺くんは、ずいと私の顔を覗きこんできた。
「俺は今日提出のみんなの英語のノートを横井先生に渡してくる。俺の考えた内容のメモをうまく日誌に書いておいて」
「……はい」
田辺くんは行ってしまった。
日誌の内容を考えたわけだし、できたら私がノートを提出する係がよかった。でも普段は真顔の田辺くんが怖くて何だか言い出せなかった。
たいして話をしたことがないのに、田辺くんはなんで私を学級委員に選んだのだろう?
私を選んだら田辺くんが悪口を言われちゃうかもしれないのに。
でも今は理由を考えるよりも、学級日誌に集中しよう。
田辺くんの綺麗なメモ書きを、学級日誌に当てはめていく。
「うわ……」
何もしていないはずなのに、田辺くんのメモ書きの文字がところどころ反転してしまい、隣に見本があってもなかなか書けない。
これこそ、私にある書字障害の症状だ。
ボールペンを震わせながら、集中する。
短い文章だったのでなんとか書き終わり息つくが、すぐに枠に収まっていないガタガタすぎる自分の文字に嫌気がさした。
そこへ田辺くんが戻ってきて、私の学級日誌を手に取る。
どんな悪口を言われるのかと縮こまっていると、
「おしまい」
と田辺くんはぱたりと学級日誌を閉じた。
「日誌書けたー?」
教室に真淵先生が足早に入ってきた。
ぎくりとする私の横で、田辺くんは学級日誌を差し出す。
真淵先生は学級日誌を開き、すぐに閉じた。
「字、読めない。汚いからやり直せ」
真淵先生はすたすたと教室を出ていく。
私は両手を使い、田辺くんの鋭い視線から逃れるために自分の顔を隠す。
「ご、ごめんって。書き直すから睨まないで」
「え、は……睨んでないけど」
隠していた手の隙間から田辺くんを見た。
田辺くんはやはり真顔のまま私の前の席にすとんと座り、机の上に置いた学級日誌を開いた。
手の隙間から見える。
田辺くんは一行一行汚くて読めない私の字に()をつけて、補足を付け足している。
「なんで、消さないの?」
自分の顔を覆っていた手をおろすと、田辺くんは学級日誌を見ていた顔を上げた。
「野村さんが書いた文字だから」
「え?」
「真面目に時間をかけて書いたのに、やり直せの意味がまじで分かんねーよな。読めないっていうなら野村さんの字の隣に同じこと書いて、ちゃんとやっていることを理解させてやるわ」
はあとため息をつき、田辺くんはボールペンを走らせた。
英語と和訳みたいに共通した二つを繋ぐ一つの文章。
ああなんでだろう、なんでこの人は、
人から嫌悪感を抱かれる私の障害を、こんなにもすんなりと受け入れてくれるのだろう?
「野村さん、どうした?」
「……ごめん、田辺くん」
「……野村さんのせいじゃないっつーの」
泣きそうで俯く私の頭を撫でてくれた。
その時、こらえきれなかった一粒の涙が溢れて、私は初めて知る。
田辺くんは、心底優しい。
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