エニグマティック・クラスジャーナル

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ーー  学級委員になってから、田辺くんはいつも私の側にいた。  字が書けない私の代わりにノートをとってくれたり、そうかと思えば学級日誌は内容だけ考えてメモを私に回す。  多分だけど、私の負担にならない程度で私にうまく字が書けるように陰で応援してくれているのだと思う。  彼が学級委員に選ばれるわけが改めて分かった気がする。  私の悪口を言うクラスメートもいなくなっていた。どうやったのかは知らないけど、きっと私の知らないところで田辺くんがみんなを説得してくれたと、私は確証している。  無謀に思えた『このクラスで心穏やかに過ごす』という私の夢を、田辺くんは叶えてくれた。  いつも真顔だし、少々乱雑な話し方をすることもあるけど、見た目も中身にも憧れのある田辺くんはそばにいて、私は支えてもらって、今は何もないけど、いつかお礼ができたらいいなと考えていた。  田辺くんと過ごして半年がたった頃、いつものように学級日誌を二人で書いていた時のこと、 「俺さ、明日からアメリカに行くことになった」 と突然告げられた。 「え?」 「父さんの仕事の都合で一週間。突然だからまじで困る」  はあとため息をつく田辺くんを見て、私は自然にできていた息の吸いかたを間違えた。 「げ、げほげほっ、げほげほっ」 「だ、大丈夫か?」 「う、うん……」  胸をさすりながら息を整えた。  田辺くんは窓の外を見ながら、 「野村さんにお願いがある」 と静かに言う。私は思わずゆっくりと首を傾げてしまったが、すぐに頷いた。 「なに?」  田辺くんは私の顔を見てから、背中に隠していたものを取り出す。  取り出したのは動物や花やハートなどのシールがこれでもかというくらいに貼られた、B5サイズのノートだった。 「これは?」 「開けてみて」  促されるままにそっとノートを開けた。ノートのページには文字が詰まっていて、それぞれ個性が出ていた。  一行空いているところが所々にあるのは、ここから下はまた別の誰かの文章だと分かりやすくするためだ。   『勉強がついていけない』 →多分分からないところを教えられるから聞きに来い。 『部活の練習きつい。やめたい』 →とりあえず弱音をはきに話に来い。    続くノートの文章。田辺くんはノートに指をさす。 「上に『』で悩み相談を書かれたら、下に→をつけて俺が悩みに答える。書くのは自由の匿名のクラスでの相談ノート」 「相談ノート?」 「俺が作った学級日誌。かっこつけるとエニグマティック・クラスジャーナルって言うの」  田辺くんは寂しそうな顔をごまかすように微笑む。 「このノートでせっかくいい感じにクラスがまとまってきたのに、俺、アメリカ行っちゃうからさ、俺がいない間は野村が引き継いでほしい」  ごくりと唾を飲み込む。  一瞬、田辺くんに恩返しをできるチャンスだと嬉しくなったが、任されようとしているものが大役過ぎる。 「引き受けたいけど、相談相手が私じゃ無理じゃない?」 「無理じゃない」 「一週間くらいそのままにしておいても大丈夫じゃないかな?」 「毎日相談できる場所があるから、みんなが安心するんだと思う」 「でも、私じゃ代わりにならな……」 「お願い」  だんと机に拳をぶつけて、田辺くんは顔を近づけてきた。  田辺くんの顔は綺麗だけど元は私にとっては怖いので強い圧がある。  さっと目線をそらしてしまった。 「でも私は……字が書けない」 「……もういい」  田辺くんは立ち上がる。 「俺は書字障害と真剣に向き合っている、野村さんが好きなの。字が書けないなんて言い訳して逃げると思わなかったわ。……じゃ」  田辺くんは私に背をむけて少しずつ離れていく。  このまま、田辺くんと喧嘩したまま一週間別れちゃうと思った。  田辺くんが教室を出て行ってしまう。  期待に応えなくては。そうだ、返さなくては。  今までくれた恩を。 「待って、やる!」  思わず立ち上がると、教室の扉の手前で、田辺くんは真顔のまま振り返る。 「や、ります」  だから、睨まれるの怖いんだよう。  口をつぐんでしまうと、田辺くんはくすりとした。  私が首を傾げると、田辺くんは先ほどよりもくすくす笑う。 「悪い。俺、今、野村さんのことはめた」 「え?」 「わざと怒ってさ、引き受けさせた」  唖然としていると、田辺くんがあっさりと引き返してきた。 「ごめん。やってほしい。俺、野村さんになら頼めると思った。というか、野村さんにしか頼めないと思った」 「私にしか?」 「お願いします。クラスを一冊のエニグマティック・クラスジャーナルでまとめてください、学級委員」  田辺くんから差し出されたノートを見つめる。  今更だけど自覚した。  全然頼りないけど、何もできないけど、私は学級委員なんだ。  同じ学級委員である田辺くんの思いを支えてあげたい。  クラスのみんなを守りたいという、その意志を。 「はい」  私はノートを受け取り、そっと抱きしめた。
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