狐の祭

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 お祭りは雲ひとつないよく晴れた日ではないといけない。  水を張った田んぼに青空を映し、地上と天と、2つの空が必要なのだ。  人間には見えない祭りが始まる。  水辺がたくさんの命を育み、  たくさんの命を奪っていく。  その渦から道が生まれ、空に続いていく。  田んぼから生まれた道は空に広がり、西へ東へ駆け巡る。  山はその精気を吐き出し、  世界に満ちた生き霊たちが振り返る。  やがて時間を捻じ曲げ、  次第に空間を歪ませ、  四方八方の田んぼを空で繋ぐ。  僕たちはその天空の道を人間の姿に变化して練り歩く。  その時ばかりは狐も狸も鼬も仲間になって、笛や太鼓や歌で朝から晩まで騒ぎ立てる。  そのうち、魑魅魍魎も集まって、この不可思議な水辺の誕生を祝うんだ。  人間は気付かない。  だって、これは他人事。 💧  その子が不思議な恰好で立っていたものだから、つい話しかけてしまったのだ。 「その帽子は何?」  ボクは里の子どもに化けていた。うまく化けたつもりだったけど、いつも何故かきつね色の髪の毛だけは長くなってしまう。ボクの変身の癖だった。でも、人間に狐だと気づかれたことはない。だから、なんのためらいもなく訊ねていた。 「草の上で走りにくそうな靴をなぜ履いているの?」  その子が驚いてボクを見たとき、強い風が吹いた。飛ばされないようにその子は帽子を押さえる。  ボクの方は、長い髪を容赦なくボサボサにされ、目の前がもじゃもじゃになった。 「手に持っているのは何の蔓で編んだ行李? 大荷物を持って何をしているの?」  まとわりつく髪の毛も何のその。ボクの疑問は湧き出して止まらなかった。この田園とサンダルの彼女が結びつかなかったから。  最初は戸惑い気味だったけれど、その子はクスクスと笑い出した。  それから、しゃがんで行李を開けると、中から大きなくしを取り出す。 「後ろ向いて」  ボクは素直に後ろを向いた。頭がくいっと後ろに引っ張られる。その子は髪を梳いているのだ。 「この帽子は麦わら帽子。ここに来ているのは撮影のため」  手を止めることなくその子は答えた。 「ここで写真を撮っているの」 「誰が?」 「お母さん」  でも、その場には誰もいなかったから、ボクは首を傾げた。 「妹がトイレに行きたくなったから、ちょっと休憩だって。だからいない」  髪を梳き終え行李にくしをしまうと、その子は崖の向こうを指さした。 「田んぼがきれいでしょ?」  見渡す世界は、西日を映して金色に輝いていた。  胸がドキドキしていた。誰にも言ったことのなかった「田んぼがきれい」って気持ち、ボクと同じだったから。 「うん、ボクも好きなんだ」  その子は嬉しそうに顔をほころばせた。それから帽子を脱いで、ふいにボクの頭にそれを乗せた。数歩下がってボクを眺め、 「かわいい!」  弾けるように笑った。 「ふわふわの髪に合うと思ったの。やっぱりかわいい」  可愛いと言われたの初めてだ。長い髪をしていたから、女の子と思ったのか。戸惑いながら、帽子を触る。 「ありがとう」  麦わらのデコボコをザラザラとなぞり、面映ゆさを誤魔化しつつ何とか答えた。 「それ、あげる」  ボクは顔を上げた。思いもよらない提案だった。 「でも、使うんでしよ?」 「予備の帽子がちゃんとある。サンダルもあげる」 「でも」  そわそわと落ち着かないボクを気にもせず、サンダルに手を伸ばした。 「お母さんに怒られるよ」 「いいよ」 「ダメだよ」  止めようと思ってボクはその子の手を掴んだ。  すると、その子は動きを止めて何度も瞬きをした。 「何か見える」  ポツリと呟き、崖の下の景色を懸命に見つめている。 「田んぼから、何かが出てる!」  その目を輝かせている。  ボクは言葉を失っていた。  人間の知らない祭りへの通り道が見えるなんて思わなかったから。明日から始まる祭は、人間の参加は厳禁のはずだ。 「空へと続く道が見えるの?」 「うん。すごい、きれい」  その子はうっとりとの田んぼの光を見つめている。  さっきまで見えていなかったのに、なぜ見えるようになったのか。不思議だったけれど、もしかしたら、ボクが触れた手の平から何かが伝わったのかもしれない。そう思ったら嬉しくなった。 「君にも見えるようになったんだ」  この子が人間だとしても、繋がることができるのだ。 「ボクたちは、あの道を練り歩くんだよ」  高揚する心のままに、言葉が溢れ出す。 「一緒においでよ」 「行っていいの?」 「もちろん。明日の朝、またここに来て」  夢中で田んぼを見つめるその子も、熱に浮かされたようにうなずいた。 「でもね、一つだけ約束があってね。とても大切なこと」 「大切なこと?」 「うん。人間のことを忘れないといけないんだ」 「人間を忘れる?」 「そう。あの祭は人間のふりをした化け物になって、踊り明かすんだよ。だから、本物の人間は駄目なんだ」  その子は困ったようにボクを見つめる。 「お母さんのことも忘れないといけないの?」  今にも泣き出しそうな声に何も答えることができなかった。 「わたしできない」  その子はゆっくり手を離した。  ボクの手を離れたから、きっと、もう道は見えない。田んぼの光も消えてしまっただろう。  繋がることも、離れることも、なんて簡単なのだろう。  何も言えずに立ち尽くしていると、ふと人の気配がした。 「ごめーん!」  向こうから大人の声がした。  同時にそちらへ視線を移すと、小さな子どもと手をつなぎ、こちらへ走ってくる人影が見える。  きっと母親だ。  僕は素早く元の姿に戻り、帽子を口にくわえた。 「わっ! 狐?」  母親が叫ぶのと同時に、ボクは風のように走り去る。  これなら、怒られないだろう?  狐に盗られたのなら、帽子を失くしたのは彼女のせいじゃない。 💧 「人間の前で変身を解いただって?」  穴ぐらの中で今日の出来事を話すと、母は怪訝な顔をした。 「だって」 「だってじゃないよ。明日にはお祭りだっていうのに。人間に見つかったらどうするんだ?」 「ごめんなさい」  謝るしかなかった。変身を見られるのはご法度中のご法度。  一族の危機に直結するのだから。  でも、母はそれ以上僕を責めなかった。 「朝起きて晴れていたら行列が始まる。寝坊するんじゃないよ」  そう言って寝床へ潜り込んで寝てしまった。  僕もそのそばで丸くなる。  傍らには帽子が置いてある。捨てろと言われるかと思ったけれど、やっぱり母は何も言わない。 (明日、あの場所へ行こう)  持ち帰ってしまったものの、あの子に帽子を返したかった。 💧  次の日、先へ行くと母に告げ、こっそり崖へと向かった。  でも、あの子はいなかった。  ボクは人間の姿で崖から田んぼを見る。  いくつもの光の帯は至るところへ散らばり、その一つは崖にも届いていた。ボクはその道筋に足を踏み入れた。  それは地上と天上を結ぶ橋だ。  人間のフリをした狐が各々に着飾って、橋を渡る。  そのうちに他の獣も、虫も。風も花も木も草も。妖怪も精霊も集まり始めた。  今日ばかりは種族も縄張りも草食も肉食も関係ない。弱肉強食は人間に任せ、人間のフリをして歌い踊る。  何もかも人任せ。何もかも他人事。  でも、ボクだけはあの子に会いたい気持ちに呼び止められ、後ろを振り向いた。あの崖にあの子はいない。  不意に母に肩を叩かれた。  いつの間に後ろにいたらしい。 「お前、人間にふられたか」  遠くで笛の音が鳴り響いている。 「違うよ。ボクとは住む世界が違うのだから」  母は化粧をしていて、その唇が赤い。いつもより派手な浴衣を着て、意味ありげにボクを見ている。 「そうだねぇ」 「あの子も、人間の子も、田んぼがキレイと思うのは一緒なんだ」 「そう。あの田んぼを作る苦労も知らず、水の中で起こる生き死にも知らず、他人事のようにキレイという様は、おんなじだねぇ」  母の唇が歪んだ。  そんなことを言う母親に腹が立ったけど、何も言い返せなかった。  ボクは帽子を捨てようとつばをぎゅっと掴む。  でも、できなくて、かぶり直す。  そして、踊り狂う獣と怪の中へと戻っていく。 💧     それから幾年か経った。  今年もボクはあの崖に佇んでいた。  長い髪はあの日のままのきつね色。  ふと、向こうから若い女が駆け寄ってくる。 「行こう」  ボクはその手を取る。女の尻には尻尾がついていた。 「相変わらず化けるの下手くそだなぁ」 「あなただって髪がきつね色でしょ?」  ボクは帽子をかぶり、眼下に広がる水田を眺めた。 「キレイね」  女がうっとりと呟いた。 「そうだね。理屈なんてどうとでも。キレイなもんはキレイで、胸を打つもんは打つんだ」  手を離したあの日の少女の顔が胸に過ぎる。  初恋というには淡すぎた。  少女の母親はちゃんと写したのだろうか。  目には見えない胸の痛みを。決して触れられない世界のざわめきを。  田んぼが空を映して金色に光っている。空へと続く道を放ちながら。 (この水鏡は誰かの手柄)  今はただ美しいと褒め称えよう。  所詮は全ては他人事。  そこに根付く息吹を無視して。  初恋の痛みも消せぬまま。    写真はきっと、約束の場所を閉じ込めている。
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