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いつものように届いた「箱」に、イレギュラーに同梱された血に塗れた手紙。
男は封を開け、一人中を確認した。
--足が付いた。そこは直に暴かれる。遠くない未来だ。それまでに全ての処理を終わらせろ。お前が全ての罪を被るのだ。お前が此奴らを殺した。最後まで、私の為に命を使え--
これは指示書だ。
実父から実子への、最初で最後の、手紙。
「その紙は何です」
老年の使用人が男の手に握られる一通の封書を見るなり、怪訝な顔で尋ねてきた。
男は何でもないと嘯いたが、聡明な彼はすぐに中身に辿り着いた。
「父君からですね。貴方様が従う必要などありません。私に罪を被せなさい。どうせ老い先短い命です。どうか貴方様の為に、この命、最期まで使わせて下さい」
男は、どちらの命にも従いたくなどなかった。
けれどその日から増える「箱」を前に、男は決断の時を迫られた。
男は逃げるように手紙を燃やした。
これで起きた現実が変わるわけではない。ましてや人の心が変わることなどあるはずがない。
それでも、男は選べなかった。
誰の命も奪いたくなどなかったから。
ある日から「箱」がパタリと届かなくなった。
それが何を意味するのか、先に気がついたのは使用人の方だった。
彼の行動は早かった。
数日後、彼は眠るように死んでしまった。
枕元には二通の手紙。
一通は偽の、もう一通は男に宛てた遺言書だ。
彼は自ら死んだのだ。
たった一人、男が死ぬより早く、止められるより早く、男が決断を倦ねている間、水面下で、彼は自身の死の準備をしていた。
眠っているような彼の亡骸を前に、男の冷えた心は漠然と男の身体を動かした。
ああ、新しい墓石が必要だ。
*
今日、天使が野犬に襲われた。
山の高台で薄明を待つことが日課となった天使が、また駄目だったと小屋に戻る途中での出来事だった。
けたたましい犬の鳴き声に男が駆けつけた時、天使は倒れ、犬は天使の翼を毟っていた。
男は持ってきていたシャベルで犬を追い払うと、すぐに天使を介抱した。
羽は毛羽立ち、所々、和毛から骨が顔を覗かせている。
天使は目に見えて衰弱していた。
男は小屋へ戻るなり天使をベッドに寝かせ、暖炉に火をつけた。
今日も粉雪が舞っている。
「あの石は、誰の為のものですか」
目を覚ました天使が暖炉脇に立つ男へ声をかける。
「高台から見ていました。真新しい、あの墓石です。僕が来てから墓石を必要とする人は来ていません。あれは、誰の為のものですか」
「……さあ、誰のものだろうなあ」
男は暖炉に薪をくべる。パチパチと空気の弾ける音が部屋に響いた。
「俺は誰の名も知らない。ここにいる、誰の名も」
男がそれ以上答えることはなかった。
火はゆらゆらと、眺む二人に影を落とした。
この炎を、二人は揃って、とても神聖なものに感じていた。
別れの日は近い。
その予感は、翌日になって確信へと変わった。
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