天使の梯子

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*  降り続いていた雪が止んだ。  鈍色の空が目映く光る。  男は天使と、鉛のような雲が割れるのを待った。  直に薄明が落ちる。  天使はそわそわと落ち着かない様子だ。  あの灰のような雪が「天使の灰」ならば、それが止んだということは、得られる答えはどちらかしかない。  男は希望であれと願い、天使の傍らに立った。  辺りには灯油の匂いが充満している。  男の準備は万全だ。  「どうか」  天使が祈りを捧げる。  ついに空が割れ、光が落ちた。  あの日天使をこの地へ誘った淡い光の柱が、今再び天使を迎えるように降りてくる。  「お別れだ」  男は一歩、天使から離れる。  足元には無数の灯油缶が転がり、手にはマッチ箱が握られている。  「ありがとう。今まで……本当に」  天使のガラス玉のような瞳が一閃した。  溢れ出る涙を隠すように、天使は男に背を向けた。  ぼろぼろの翼が痛々しく照らされる。  男はマッチ箱からマッチを一本取り出すと、側薬に頭薬を押し宛てた。  「いくよ」  「……うん」  乾いた摩擦音が響く。  小さな明かりが、男の顔を照らした。  「また、な」  火のついたマッチが男の手を離れ、一帯に広がる燃料に落ちる。  かくして、辺りは業火に包まれた。  たった一つの小さな火種が、男の撒いた燃料を辿り、この広い私有地を光のように駆け抜けていく。  猛々しく燃える炎に呼応するように、各所から唸るような轟音が響き地を震わせた。  その荘厳たる鎮魂歌に誘われ、死者の魂は地を破り天高く(けぶ)り柱となって昇っていく。  襤褸(らんる)で痛ましい翼を広げ、天使はついに地を蹴った。   魂の上昇気流に乗って、最低限の羽ばたきで、天使はとうとう空へ飛び立った。  天使が見えなくなるまで、男はその場に立ち尽くし逆光を見送った。  天使が男の方へ振り向くことはついぞなかったけれど、男はそれで良いと安堵した。  男の足は、自然と一つの墓石へと赴いた。  “それは誰の為の墓石ですか”  男は埋葬日すら刻まれていない、まっさらな石碑に向かった。  「本当に、誰のものだったのだろうなあ」  男は、自分の名を知らない。  元より名などなかった。  それでも、男は墓石を削った。  自分自身の墓石を。  それが、ここまで自身を生かした命への、せめてもの礼儀だと思ったから。  男は最後の灯油缶を手に取ると、さながら聖水で身を清めるかの如く勢いよく被った。  やがて(から)になった缶を捨て、両の手を天へ掲げ薄明を仰ぐ。  淡い光の柱がスポットライトのように男を照らし、濡れた身体が煌々と光を反射する。  炎の熱に息吹いた風が、男に火の粉を運んでいく。  男の心は、かつてなく慈愛に満ち溢れていた。  「逝く時は、共に」  轟々と燃える終焉の炎は男の最期の言葉を呑み込むと、やがて男自身を天へと続く煙へと昇華させた。  それはこの地に(くゆ)る魂達と混ざり、柱となって遥か上空を飛ぶ天使のもとまで届いた。
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