第四章 それはそれとして(5)

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第四章 それはそれとして(5)

 あの箱の中身がわかるかもしれない――そう思った俺の期待は、嫌なかたちで裏切られることとなった。  マルセルとは二日会わなかった。三日めの午後にその時が来た。 『居住棟の談話室で待つように』  テオドールからの知らせだ。  待つこと十数分、マルセルが来た。いつも通り後ろに侍従や召使を数人ずつ従えている。 「私にご用事がおありとか」  目つきが鋭い。このじいさんが一番俺を嫌っていそうなんだよな。  平常心、平常心。 「あなたが細工物に詳しいってテオドールに聞いたんだ。シレズの細工箱も知ってるよね?」 「もちろん存じております」 「開けることはできる?」 「ものによっては、ですな。それが何か?」  俺は膝に置いていた箱を示した。 「この箱はシレズから持ってきたものなんだけど、開け方を忘れちゃったんだ。ちょっと見てもらいたい」  しかし、マルセルは動かなかった。箱を手に取ろうともしない。 「マルセル? 見てもらいたいんだけど」  じいさんはふんと鼻を鳴らした。 「シレズの細工箱は非常に繊細で美しいものですが、正直に申し上げまして無駄ですな。開けるのは簡単でしょう。斧で壊せばよいのです」  俺はもう少しで絶句するところだった。 「そんなことしたら中のものまで壊れるよ。壊さないで開けたいんだよ」 「そのような大切なものを入れたのに、開ける方法をお忘れとは。なんとも奥方様らしい」  これにはさすがにむっとくる。 「何が言いたいんだよ」  マルセルも苦虫を噛み潰したような顔だ。 「私の手助けなど期待なさらぬことです。勘違いなさらぬように。私はエメリヒ家の家令ですが、あなたには仕えておりませぬ」 「俺はテオドールの伴侶だよ?」 「ですからそれを認めておらぬと申しておるのです!」  激情もあらわな怒鳴り声に、俺は思わず身をすくめた。 「幼き頃よりこれまでテオドール様をお支えしてきたのは、不貞の妃を娶らせるためではありませぬ。いかなる国の姫君でも娶れるほどの方だというのに、よりによって最もふさわしからぬ者とご結婚なさるとは! 陛下も陛下です。ご自分の不始末を押しつけるなど、エメリヒ家に害なすおつもりかと考えずにはいられませんな」 「それは考えすぎ――」 「最も許せぬのはあなたです。あなたはテオドール様の恩情により生かされているにすぎぬのですぞ。その大恩も忘れ、城を好き勝手に歩き回り、あまつさえ当然のような顔で領主の伴侶として街にまで出るとは、恥を知りなさい。汚らわしい」 「汚らわしい?」  訊き返さずにはいられなかった。 「なんです? ご反論がおありで? 義理の息子と寝るような方が、汚らわしくないとおっしゃるのでしょうか?」 「それは……」  ヨナタンの話では事実みたいだけど、俺にそんなこと言われたって。 「もしもあなたが身の程をわきまえていらっしゃるのならば、即刻ローヴァインから立ち去っていただきたいものです。あなたがエメリヒ家の汚点とならぬことを祈っておりますよ」  マルセルが家来を引き連れて談話室を出ていく。  俺はもう何も返せなかった。ただ膝で拳を握っているしかできない。うつむいて、唇を噛んで。  あんなに罵られるようなことを、俺はしたんだろうか。  不貞を働いたのは俺じゃない。リシェだ。でも、俺でもある。日本で同じようなことをしていたのは、俺。付き合っていた彼女を裏切って、浮気して、同時進行で何人かと付き合ってみたり、気まぐれに別れた女に連絡してみたり。  その報いなのか。これが。  嫌いだとか、ひどいとか、言われたことくらい、いくらでもあるけど。  汚らわしいは、さすがにない。初めて言われた。  こうまで罵詈雑言を浴びせられて、それでも黙って受け入れなきゃいけないのか。  それほどのことを、俺はしたのか。  テオドールを出迎える気には、とてもなれなかった。  俺は自室のベッドに鬱々と転がっていた。  このまま眠ったらまた全然別の人生に入っているとかないかな。全部忘れてやり直したいな。  扉が開いた。  寝ているふりをしよう。扉に背中を向けたけれど、微妙に遅かった。 「どうした?」  テオドールだ。俺が出迎えに来ないから、心配してくれたらしい。  俺はのろのろと起き上がる。 「ごめん。今日は、ちょっと」 「具合が悪そうだ。食欲はあるか?」  俺は首を横に振る。 「粥でもだめか?」  今度は縦に振る。 「そうか。わかった」  彼はしばらく俺の顔を窺っていた。 「箱は開いたか?」 「あれは……、まあ、なんとかして自分で開けるよ。マルセルにもよくわからないみたいだし」 「マルセルに何か言われたか?」  鋭い。  マルセルはテオドールには今日のことを話していないみたいだ。俺も話す気はない。 「ううん、別に」  話したくないんだ――とは、彼にもわかったんだろう。小さく息をついて、彼は俺の手を取った。 「早く元気になってくれ。あなたが小屋に来ないと、庭師が戸惑っていた」 「あ! しまった! ユーゴ!」  俺は飛び起きた。 「いや、今日は行かなくていい。庭師にユーゴを連れ出すよう言っておいた」 「でも」  ユーゴはきっと寂しがっている。 「あなたはユーゴのこととなると人が変わる。心配するな。いい子で散歩に行ったよ。あなたがしつけをしてくれたからだな」  最もふさわしからぬ者、なんて言われてしまった俺だけど。 「ユーゴにだけは、少しは役に立ってるのかな」  テオドールの真摯なまなざしが、俺を捕らえる。 「ユーゴにだけではない。先日の街歩きは私も楽しかった。まさかあなたとあのような時間が持てるとは思わなかった」 「俺も楽しかったよ」  言いながら、俺は思った。  やっぱりあの箱は開けよう。何が入っているのか知りたい。  リシェにとって、何が大事だったのか。
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