第五章 心を置き去りに(1)

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第五章 心を置き去りに(1)

 たぶん、すがるような気持ちだったんだと思う。あの箱の中に何か、俺の状況がよくなるものが隠されているんじゃないか。一気に形勢を逆転できる魔法のアイテムが。  俺が聞いたことのある日本の細工箱は、板をスライドしたり、押したり、抜いたりしてパズルを解くものだ。シレズの細工箱もきっと同じ。パズルを解けば開けられるはず。  だけど。  俺はパズルゲームが苦手だった。しかもこれ、ぷにぷにしたボールを繋ぐとか入れ替えるとかじゃなくて、パーツを上手く組み合わせるタイプの昔ながらのパズルだ。慣れてないと余計難しい。  俺は箱を手に試行錯誤していた。どこか動きそうな感じはするのに、動かない。動かすパーツが違うんだ。  リシェは賢いよ。この中に何かアイテムがあるとしたら、上手い隠し方。開け方を知っている人にしか取り出せない。  マルセルが言ったように斧で壊すのも手だけど、実際にやるには勇気がいる。箱だけ壊して中身は無事、なんて、天文学的な確率だろう。  そんなふうに、俺が箱のことばかり考えて上の空だったから、ユーゴにも伝わってしまったんだろう。  朝晩の散歩で、ユーゴは俺を見上げて立ち止まることが多くなった。 「何? ユーゴ。どうしたの?」  訊いてもきゅんきゅん言うばかりで、何を言いたいのかよくわからない。犬や猫ってそうだよね。向こうはこっちが言いたいことを結構わかってくれるけれど、こっちは向こうの言いたいことがよくわからない。  もっと構ってほしいのかなと思って撫でると、尻尾を振る。そうしてユーゴをぐしゃぐしゃにしながらも、俺はまた考えている。  最近なんだか調子が悪い。あの箱に気を取られているだけじゃなくて、身体も変だ。妙に怠い。  あの日もそうだった。  朝から四肢が重たくて、頭が痛い。腹具合もおかしい。痛いとか便意とかじゃないのに、どうも気になる。 「風邪でもひいたかな」  俺は丈夫だ。というか、日本にいた頃は丈夫だった。リシェのこの身体はいかにも繊細な見た目だし、毎日歩き回っているのがかえってよくないのかもしれない。「たまにはゆっくり休め」っていう、身体からの訴えかな。  俺は召使を呼んだ。 「悪いけど、今日のユーゴの散歩は代わってもらえるように庭師に伝えてくれない? なんだか体調が悪いんだ」 「かしこまりました。朝食はいかがなさいますか?」 「もう少し後にここに運んで。ちょっと寝たい」 「承知いたしました。では、そのようにテオドール様へもお伝えいたします」  いつも接している召使たちは、態度は変わらず冷淡なものの、言ったことはちゃんとやってくれる。  一時間ほど寝直して、召使が食事を持ってきてくれたので少し食べた。食欲はないわけじゃない。むしろ腹は減っている。でも、満たされない。  飢餓感。  なんだろう、これは。  記録室にも行く意欲が湧かない。今日はこのまま部屋で休むことにして、何か本を持ってきてもらおうか。城の図書室で何か見繕ってもらって……。  いや、やめよう。その本を選ぶのはマルセルな気がする。きっと「貞節」とか「遵法」とか「罪と罰」とかそういうタイトルを選んでくる。それは気が滅入る。  結局また横になった。もう一時間寝ようと思ったんだ。  だけど、目を閉じてうとうとし始めた頃に外が騒がしくなった。 「うわあ!」 「きゃーっ」  なんだ。悲鳴か? 何かあったのかな? 「そっちに行ったぞ!」 「捕まえろ!」  ここまで声が響いてくる。そうかと思えば別の方向から声が上がったり、近づいたり遠ざかったりしながら、騒ぎは移動しているようだった。  寝ていられないんだけど。  敵襲――ってことは、ないよな。少なくとも昨日まではそんな気配もなかったんだから。  なんだろう。  俺は仕方なく起き上がって、外を見ようと床に足を下ろした。 「奥方様っ!」  突然扉が開いた。心臓が止まりそうになった。 「なっ、何っ?」  転がり込んできたのは召使だった。いつも俺の部屋や居住棟の廊下を掃除してくれる子だ。 「奥方様、お加減がお悪いところ申し訳ありません! あの、ユーゴが、暴れています!」 「ユーゴが?」  肌が粟立つ。 「暴れてるって何? あの子どうしたの?」 「小屋の扉を破って外に出たんです! 庭師が止めようとしても止まらなくて、庭中を走り回っていて……。もしも誰か噛まれたら大怪我をしてしまいます! 屋内に入り込まれたら大変です!」 「落ち着いて。あの子は噛んだりしない」  それでも急いだ方がよさそうだ。俺は夜着のまま靴だけ履いて外に飛び出した。わあわあと騒ぎが続いている。 「テオドールを呼んで! マルセルも!」 「だめです。テオドール様もマルセル様も本日は裁判の立ち合いがあるとおっしゃって」  肝心な時に!  体調が悪いなんて言っていられない。俺は騒ぎの方へ走った。 「ユーゴ! ユーゴはどこ?」 「奥方様! 泉の方です!」  庭師のひとりが叫んだ。  そうだ。ユーゴは泉で遊びたがっていた。  泉の中央にユーゴがいた。口を開き、舌を出して、笑うように泳いでいた。  俺は泉のほとりに仁王立ちする。  ユーゴが俺に気づいた。尻尾がぶんぶん触れる。 「おいで(・・・)」  いつもより腹に力を入れて、低く抑えた声で読んだ。  浮かれていたユーゴも、俺が普段と違うことに気づいたんだろう。尻尾が止まった。 「わふ……」 「おいで(・・・)」  二度めはさっきよりもっと低く呼んだ。ほとんどドスのきいた声っていっていいくらい。  ユーゴは肩を落として、萎れた様子で泉から上がった。 「おお……」  ざわめく召使や庭師、兵士たちを手で制して、俺はユーゴの前に膝をつく。  ユーゴは目をそらした。叱られることがわかっているんだ。「しまった、やっちゃった」って。 「ひとりで庭を走り回らない。泉もだめ。落ち着いて、言うことを聞いて」 「くぅん……」  庭師がリードを持ってきてくれた。ユーゴはもう抵抗しなかった。おとなしくリードに繋がれて、見るからにしょんぼりしている。なんとも哀れを誘う姿だ。 「ちょっと散歩するから」  俺は言って、庭をひと回り歩いた。こうやって歩くんだよってユーゴに思い出させるんだ。うなだれていたユーゴも、歩いているうちに元気を取り戻してきた。  ユーゴが俺を見上げる。 「いい子だね。そうだよ。俺の傍を歩くんだ」  小屋に戻る頃には、ユーゴもすっかり落ち着いた。俺に頭を擦り寄せて甘えてくる。  ユーゴの身体を拭いて、ブラシをかけてやった。やがてユーゴは毛布に丸くなる。走り回って疲れたんだろう。  俺も疲れた。  小屋の外には庭師や召使が人垣を作っていた。ひそひそと囁きかわす声が聞こえる。 「最近よくなってきたと思ったのに……」 「繋いだらどうかしら? また暴れられたらかなわないもの」  ユーゴの話だ。でも、俺にも言われているみたいに感じる。  小屋の扉は丁番が歪んで外れかけていた。だからユーゴが脱走できたんだ。  めまいがする。やっぱり身体の具合がよくない。  俺は庭師を呼んだ。 「テオドールが帰ってきたら、俺の部屋に来るよう伝えて。夕方のユーゴの散歩はお願い」 「でも、あれだけ暴れたんですよ? 散歩は必要ないのでは?」 「排泄させなきゃいけないだろ。いいから、言う通りにして。あと、扉の丁番を直して」
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