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第五章 心を置き去りに(3)
テオドールは俺を抱きしめていた。耳元で聞く彼の呼吸が、獣のような荒さから少しずつ速度を落として、いつもの通り穏やかなものに変わり、その間俺はぐったりと彼に身を委ねていた。
怠い。でも、気分は悪くない。さっきまで俺を苦しめていた恐ろしいほどの性欲も、朝から続いていた不調も消えている。
テオドールが大きく息を吐きだした。
「落ち着いたか?」
俺も深呼吸してみる。
「うん。もう、大丈夫みたい」
が、股に違和感があった。
頬が熱くなる。
俺は上着を下に引っ張って下半身を隠す。もじもじと腿を擦り合わせた。
「あの……」
彼もそっと俺の様子を確認して、自然なふりで身を離した。
「汗をかいただろう。入浴してくるといい」
はっきり言わないのは、気を回してくれたんだ。
俺は風呂で服を脱いだ。下着が汚れている。射精してしまったんだ。
なんで。
情けなくて、涙が出てきた。ぐすぐすと啜り上げながら身体を洗い、新しい夜着を着た。
姿見で確認すると、首筋に赤く歯形が残っていた。
テオドールが俺にしたのは、これだけだ。ほかのところには触っていない。胸にも性器にも触らなかった。
俺は首を噛まれただけで絶頂してしまったんだ。
そこまで理性を失っていたのか。性欲に狂って人にすがるなんて、そんなこと初めてだ。しかも、男に。
部屋に戻った。テオドールはソファーで待っていた。
「大丈夫か?」
そう尋ねる彼の態度は、どこかよそよそしい。
「……うん」
俺も目を合わせられない。彼と寝ること自体は嫌じゃなくても、こういうのは嫌だ。
「リシェ。薬はどこだ?」
彼の声音が硬い。
「なんの薬?」
「発情を抑える薬だ。ないのか?」
「そんなの、ないよ」
なんのことを言っているのかもわからない。
テオドールはこめかみを揉んだ。
「あなたが何も言ってこないから、王都で調達したものとばかり思っていた。ないならないで言ってくれ。いくらでも手を打ったものを」
「待ってよ。こんなふうになるなんて俺も知らなかったんだよ。薬って何? さっきのはなんなの?」
彼はショックを受けたようだ。
「なんだって? 知らなかった? そんなはずはない。陛下はあなたがオメガだから輿入れさせたのではなかったか?」
「なんのこと?」
テオドールは言葉を失い、数秒俺を見つめていた。見知らぬ生物を見るような目だ。
「あなたはオメガだ。そうだろう?」
やっと絞り出した彼の言葉も、俺にはわからなかった。
彼は頭を抱えた。
「なんてことだ……。いったいどうなっている?」
それは俺が訊きたい。
「俺は病気なの?」
「いや、病気ではない。あえていうなら、体質だ」
答えてから、テオドールは困惑に揺れる。
「本当に知らないのか?」
「知らない。なんの話をしてるのか全然わからない」
「しかし、シレズの末王子リシェはオメガであろうと近隣国にも知られていた。専門医に診せて間違いないとわかったからこそ陛下はあなたを娶ったんだ」
彼の眉根が寄る。
「どういうことだ……」
そんなに悩まれても、俺だって困る。
「そのオメガってなんなの?」
テオドールは顔を上げた。
「オメガとは、稀に出現する、特異な性質を持つ者だ。主な特徴はふたつ。ひとつ、オメガは男であれ女であれ子を生む能力を持つ」
「あ……!」
謎が解けた。ヨナタンがリシェと結婚した理由。
世継ぎがいるから男同士でもよかったんじゃない。リシェが男でも子を生むことができるから、男同士でよかったんだ。
「もうひとつは、数か月に一度発情期を迎えることだ。今日のあなたがそうだった」
「前にあなたが発情期が近いのかとか言ったのも、それ?」
「ああ。あなたがオメガだと聞いていたから」
テオドールはなぜか、沈痛な面持ちで話している。
「オメガは非常に麗しく、性別に関わらず相手を魅了する色香を持つと言われている。発情期ではなおさらだ。特にアルファにとっては、抗いがたいほどの魔力を持つそうだ。このアルファとはオメガと対となるもうひとつの特殊な性質で、ずば抜けて優秀な者が多く、『王者の性』とも呼ばれている。オメガ同様に稀な性質だ」
彼はここでひと息ついた。
「私はアルファだ」
「え……」
「特に明かしてはいないため、ローヴァインですら私がアルファだと知る者は少ない。ヨナタン陛下にも伝えていない。『王者の性』などと明かせば陛下の不興を買うことも考えられた」
わかる。ヨナタンは自分以外が「王者の性」を持っているなんて面白くなさそうだ。
「アルファとオメガは『番』と呼ばれる絆を結ぶことができる。番を得たオメガは発情しなくなり、アルファは番以外のオメガの発情や、ほかの者の誘惑に影響を受けにくくなるという。番を成立させる方法は、アルファが発情期のオメガを噛むことだ」
「じゃあ、これ……」
俺は首筋に触れた。テオドールの噛み痕だ。
「あなたと私は番として成立した。あなたの発情を止めるためには、それしかなかった。発情中のオメガを前にしては、賭けでもあったのだが」
そうだよな。あの雰囲気だったら噛まれたところでお互い興奮しちゃってそのまま……なんてこともありえそう。
「でも、薬があるって、さっき」
「発情を完全に抑えることはできない薬だ。眠り薬のようなもので、ともかく眠ってその時期を乗りきるらしい」
それでも、何もしないよりはずっとマシなんだ。少なくとも、体調が悪いと感じた朝のうちから飲んでいたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
「私とあなたは結婚している。番になったところで特に問題はない。ただ、その噛み痕は消えないらしい。人に見られるのはあまりよろしくないだろう。すまないが、普段は隠しておくようにしてくれないか」
「わかった」
彼が立ち上がる。
「食欲があるなら、夕食はここに運ばせよう。ゆっくり休んでくれ」
「あ……。うん」
行ってしまうんだ。
なぜか胸が痛い。胸元を握らずにはいられない。彼が行ってしまうと考えただけで、そこにぽっかりと穴が空いてしまうかのようだ。
扉で彼が立ち止まった。
「そうだ。忘れるところだった。ユーゴの件を聞いたよ」
振り向いた彼は、さっきよりやわらかい表情だった。
「あなたは暴れるあの子を鮮やかに鎮めてみせたそうだな。興奮して走り回っていたのに、あなたが現れたとたん落ち着いたと庭師長が感心していた。みな右往左往するばかりで、どうしていいのかわからなかったようだ」
「ユーゴは暴れてたんじゃないよ。はしゃいじゃっただけ。犬が興奮してる時って、こっちまで騒がない方がいいらしいよ。こっちが走って追いかけると、向こうも走って逃げる。一緒に遊んでくれてるんだって思って、ますます興奮しちゃうんだって。だから、あえて低い声で、静かに近づいてみたんだ」
「なるほど。賢いな。ユーゴについては今後もあなたに任せることとしよう」
「本当? ありがとう!」
「あの子も幸せだな。あなたにそんなに愛されて」
彼の微笑みが、俺の心を深く揺さぶる。さっきとは違う胸の疼きを感じる。
これは、何? 俺はどうしちゃったんだ?
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