第六章 触れなば落ちん(2)

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第六章 触れなば落ちん(2)

 ユーゴの散歩の後、渡り廊下でテオドールを出迎える。 「おかえりなさい」 「ただいま」  このところ、俺とテオドールの間にはいかようにも表現しがたい緊張感が漂っている。番になったという事実と、しかし俺たちは身体的にも心理的にも真の伴侶ではないという事実の間で、ふたりとも距離を計りかねている。  気になるのはそれだけじゃないんだ。  いつもテオドールに付き従っている家令のマルセルが俺を見ている。より正確には、首元のスカーフを。  ローヴァインでもテオドールがアルファだと知る者は少ない。その少ない中に間違いなくマルセルは入っている。立場的になんでも知っていると思った方がよさそうだ。だから、俺がテオドールの番になったことも、きっと知っている。  俺が彼と結婚したことにも納得していないのに、番になったなんて言語道断だくらいに思っているんじゃないか。そんな目つきだ。  ひどく罵られて以来、俺はマルセルを避けていた。じいさんの方でも俺を睨みつけている。スカーフを巻くようになってから特にひどい。テオドールはそんな俺たちの不仲を察してか、ため息をついている。 「リシェ。夜に少し時間をもらえるか」  彼は声をひそめて言った。主食堂まで歩いている時だ。マルセルは少し後ろを歩いている。 「うん」  なんの話かは、訊かなくてもわかる。  テオドールは入浴を済ませてから来た。俺の部屋に入るなり、彼は言った。 「すまないな」 「マルセルのこと?」 「ああ。私はあなたが穏やかに過ごしてくれればいいと思い、マルセルにもそう言ったんだが、どうにも態度を変えてくれない」 「仕方がないよ。それだけのことを、俺はしたんだから」  これはリシェとしての述懐だけじゃない。日本にいた頃の、樋口玲としての俺もそう。  ひどい奴だったな。最低の人生だった。落雷で死んだのは紛れもなく天罰。死んでからそれがわかったって、もう遅いんだけどさ。 「むしろあなたはよく俺を嫌わずにいてくれるよね。みんな俺が嫌いなのに」  テオドールは曖昧に微笑んだ。 「私自身にも不思議だ。以前からあなたを嫌いきれない。率直に言って、あなたを嫌う理由は十二分にあるはずだが」 「え」  そういえば、リシェがどうして彼を嫌うようになったか、まだ知らない。  冷たい汗が、背筋を滑り落ちる。 「俺はあなたに何をしたの?」 「覚えていないのか?」  覚えていないんじゃない。知らないんだ。その頃の俺はリシェじゃなかった。 「……わからない。信じてもらえないかもしれないけど、死刑になる前のことはなんにも思い出せない」  テオドールの表情も、呆れたような苦笑から本物の疑念に変わる。 「あなたは自分がオメガであることも知らず、発情への対処もできなかった。細工箱の開け方も忘れ、私との間に何があったのかも覚えていない。あなたはいったい……」 「教えて、テオドール。俺はあなたに何をしたの?」  数秒の間、気づまりな沈黙が場を支配した。やがて口火を切った彼の声音は、感情を低く抑えていた。 「一年ほど前だろうか。あなたに一度、閨に誘われたことがある」  ぐらりと足下が揺れたようだった。  そんな。彼は不倫相手じゃないと思っていたのに。 「その頃あなたは療養と称してベルセ城に滞在することが増えていた。古くから王家の別荘として使われている、王都から二日ばかりの村にある城だ。ローヴァインから王都へ赴く際に通るため、王妃に挨拶しておくべきだと立ち寄った時のことだ」  俺は地図を頭に思い描いた。王都から二日なら、頻繁に行っていたとしてもそこまで無理な距離じゃない。  どうしてリシェが何人もの男と不倫できたかわかった。舞台はそのベルセ城なんだ。夫であるヨナタンから離れ、いわば短期間別居みたいなかたちにして、その城に男を引き入れた。 「あなたは私に言った。『私たちは結ばれるべきだ』と」  テオドールは額に手を当てた。 「当然ながら、私は断った。するとあなたは激昂し、口を極めて私を罵った。不能だ、男として使いものにならない木偶(でく)だ、種なしだと」  男としてのプライドが傷ついたんだろう。不能だとか、口にしたくもなさそうに彼は言った。 「その後王都へ戻ったあなたは、徹底的に私を無視した。陛下には私の顔が嫌いだと言ったらしい。傲慢で、横柄で、厚かましい性格が顔に表れていると。もちろんあなたは自分が何をしたか陛下には話さなかった。私も話すわけにはいかない。だから陛下はあなたがただ私を一方的に嫌っていると考えたようだ」  俺は怒りが湧いた。テオドールや、ヨナタンに対してじゃない。リシェにだ。 「ひどすぎる。断られたからって悪口を言うなんて、逆恨みじゃないか」 「そうだ。だが、私はあなたを憎むことはできなかった」  彼は深く、悲しげに嘆息した。 「輿入れしてきた頃のあなたを覚えている。夢見るような瞳をした、驚くほど愛らしい少年だった。それを思い返せば、とても憎むなどできなかった」  どうして。 「憎んでいいよ。それはリシェが悪いよ」  テオドールが笑う。 「他人事のように言うが、あなたの話だぞ。しかし、不思議だな。あなたの話なのに、あなたの話ではないように私にも思える」  彼はそっと俺の手を握った。 「いまのあなたはまるで別人だ。いつも明るく楽しそうに笑って、ユーゴと草に転がったり、街で菓子を食べようとしたり……。一日の終わりにあなたの笑顔を見ると、帰ってきてよかったと思えるんだ。そんなこと、想像もしていなかったのに」  握られている手が、熱い。  俺は思ったんだ。  テオドールがリシェの不倫相手じゃなくてよかった。そんなことをする人じゃなくてよかった。  不倫していたリシェも、最低の女たらしだった俺も、もう死んだ。 「テオドール。もし俺が、本当に生まれ変わって別人になったんだよって言ったら、どうする?」  ふたつ呼吸をする間、彼は黙っていた。さっきの嫌な沈黙とは違う、はにかんだような静けさだった。  彼は俺の頬に触れる。そのあたたかいてのひらに、俺はすがりつきたくなる。  彼の顔が近づいた。俺は目を閉じた。唇が重なる。  一度めはすぐに離れた。でも、目を開けて至近距離に彼がいるとわかると、我慢できなくてそのままもう一度唇を合わせた。彼の舌が俺の唇をゆっくりなぞる。こういうキスは身体に響く。彼が俺のうなじを押さえて、口の中に舌を入れてきた。 「んっ……、ふぅ……」  俺は懸命に応える。  自分より力強い男に抱きしめられて、口づけを交わすなんて、想像したこともなかった。  再び唇が離れる。息が上がって、頬が熱かった。  テオドールは俺の髪に指を絡ませた。 「あなたを抱いても?」  俺は心臓が激しく胸を叩いて、痛いくらいだった。頷くしかできなかった。  テオドールは俺の手を引いた。 「おいで」  廊下に出て、歩いていった先は、夫婦の寝室だった。
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