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第九章 代償を払う時(2)
急報がもたらされたのは、それからすぐだった。
図書室に向かう廊下で呼び止められた。よく見る侍従がこちらに駆けてくる。
「奥方様。テオドール様が城をお発ちになります」
「えっ」
聞いていない。急な予定変更だ。
「じゃあ、見送りに……」
「いえ、今日中には戻るため見送りはいらぬと仰せです」
侍従は俺の傍まで来た。こんな時だけど、それがちょっと嬉しかった。だって、前は三メートルは離れたところからしか話しかけてくれなかったもんね。
でも、次の言葉を聞いて俺もさすがに気を引き締めた。
「昨夜街道に野盗が出たとの報告が上がってきました。テオドール様はマルセル様及び兵士を一隊お連れになり、調査に赴きます」
「領主自ら?」
「はい。街道を盗賊が荒らすなどここ何年もなかったものですから」
街道は俺がローヴァインに来た時にも通ったあの道だ。よく整備されていて見晴らしもいい。言われてみれば、盗賊にとっては稼げない条件が揃っている。その久しぶりの一件も確認しにいく領主だから、領民も頼みにするんだろう。
「わかった。俺は城で待ってる」
本当は、気をつけてって伝えたいけれど。
「私が本日は居住棟におりますので、何かございましたらご遠慮なくお申しつけください」
「ありがとう」
俺はそのまま図書室へ行った。シレズに関する別の本が届いたと連絡があったんだ。率直に言って、複雑な気持ち。リシェの故郷ではあっても、リシェがシレズを愛していたのはヨナタンと結婚する前までだ。その後は悲しみと憎しみの対象だった。
だけど、本にも司書にも罪はない。俺は本を受け取って、その場で読むことにする。
軽食を挟んで、昼過ぎ。
俺は午前に引き続き図書室で本を読んでいる。
遠くで犬の声が聞こえた。ユーゴだ。断続的に吠え続けている。
どうしたんだろう。
あの子は人に話しかけるみたいな「わん」は多くても、しつこく吠え続けたりはしない。
庭師と遊んでいるんだろうか。それとも、何かあった? 今日は朝からどうも様子が変だったし、もしかしたら具合が悪いとか……。
俺は本を閉じた。
「後で取りにくるから、預かってもらってもいい?」
「かしこまりました」
本を司書に渡して、図書室を出る。ちょうどそこでさっきの侍従とかち合った。
「奥方様」
表情が硬い。
「ヘルマン伯爵がいらっしゃいました」
誰だろう。どこかで聞き覚えがある気はするんだけど。
「テオドールがいないことは言ったの?」
「申し上げましたが、用があるのはローヴァイン辺境伯ではなく奥方様だそうです」
「俺? なんで……」
その時思い出した。衝撃が背骨を駆け抜けて、血の気が引いた。
「……ヘルマン伯?」
声がかすれていた。
侍従が頷く。
嫌だ。会っちゃいけない相手だ。
「追い返して。俺は会わない」
「それが……、会わねば困るのは奥方様だとおっしゃっています。街で奥方様とのことを触れ回ってもよいのかと」
なんて卑劣な男だ。
「テオドールに知らせて」
いや、違う。いま彼は街道の野盗の調査でそれどころじゃない。自分でなんとかしないと。
会いたくない。会いたくはないけれど、逃げるわけにもいかない。
「ううん、いい。会うよ。広間に通して」
「いえ、その。部屋に通せとおっしゃるのです。他人に聞かれてはならぬ話をするのだからと……」
どこまで恥知らずなんだ、ヘルマン伯。
「わかった。それなら、談話室で話す」
「承知いたしました」
俺は先に談話室に行き、ヘルマン伯を待った。ぎゅっと握った拳が痛い。見ると、爪の痕がついていた。
ノックもなく扉が開いた。男がひとり入ってくる。顔の造りよりも、口元に浮かんだ底意地の悪い笑みが気になる男だった。歳の頃は三十前後。テオドールと同じくらいか、少し若い。身なりはいい。体格も。金と権力に恵まれて、肥満の兆しも見えた。
見覚えのない男だ。でも、わかる。彼はヘルマン伯クレメンス・ミュラー――リシェの日記にその名が刻まれていた。
不倫相手のひとりだ。
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