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第九章 代償を払う時(3)
「なんのご用でしょうか、ヘルマン伯爵」
俺は警戒を隠さなかった。
ヘルマン伯はばかにしたように笑う。
「久しぶりに会ったというのにつれないな、リシェ。クレメンスと呼んでくれないか」
「お名前で呼ぶほど親しい間柄ではありません。あなたも私に敬称を用いるべきです」
「おや。これは失礼、妃殿下」
こいつ。
「私は王妃ではなくローヴァイン辺境伯の奥方です」
「そう、仲よくやっているらしいな。驚いたよ。まさかテオドール・エメリヒと結婚して上手くいくとは」
「あなたには関わりのないことです」
「ずいぶんお高く留まっているじゃないか。俺のものを舐めたことを忘れたのか?」
俺は奥歯を噛みしめる。
「お引き取りください」
「なぜだ。せっかく旧交をあたためようと来てやったのに」
ヘルマン伯はにやにや笑い、俺に一歩近づいた。逆に俺は一歩下がる。
「正直に言うがいい。ひとりの男じゃ満足できないだろう? ここに来て何人の男を咥え込んだんだ?」
「お引き取りください」
ヘルマン伯がまた一歩近づく。俺ももう一歩下がる。
「なあ、こんなところじゃなくて寝室に行かないか。ベッドの上で思い出話といこう」
「お引き取りください」
貴族らしからぬ舌打ちが聞こえた。
「何をそう頑なに拒むんだ。姦通は不問で済んだんだろう? だったら前と同じように愉しめばいいじゃないか」
愉しめるのは自分だけだろ。なんにも知らないくせに。
不問で済んでなんかいない。俺はたぶん、もう二度と王都へはいけないだろう。王都の人々はきっと俺を知っていて、罵倒されるか、場合によっては石だって投げられる。
ローヴァイン城の人々に受け入れられるのだって大変だった。ようやくここまで来たんだ。
不問なんかじゃない。
「お話はそれだけですか? ではどうぞお引き取りください。私からは何も申し上げることはありませんので」
ヘルマン伯は笑いながら、ゆっくり、談話室を一周する。少しずつ遠ざかって、再び近づいてくる。
「リシェ。俺は同情しているんだ。王妃としてもてはやされていたお前が、こんな片田舎に追いやられるなんてな。それとも何か? ここにいると故郷を思い出すのか? あんな小さな、田舎の国だからな!」
いきなり腕を掴まれた。用心していたつもりが、とっさに反応できなかった。
ぐいと強く引っ張られて、俺はヘルマン伯の胸に倒れ込んでしまう。
「お前の身体が忘れられなくてね。お前だってそうだろう?」
「離せ……っ」
ぞっとした。もがいて逃れようとするも、男の手はびくともしない。
「離せ! 大声を出すぞ!」
「ふん。誰が不貞の妃を助けになどくるものか」
そんな。
そういえば、あの侍従はどうした? ヘルマン伯をここへ通すにしても、外で見張っていてもよさそうなものなのに。騒ぎになっているんだから、踏み込んできたっていい。
俺は見捨てられたのか?
「離せっ! 離せよ!」
ヘルマン伯は俺の両手首をがっちり掴んでいる。痛い。血が止まりそう。
「わめくなよ。かわいがってやろうっていうのに」
男の身体がのしかかってくる。
逃げられなかった。俺は絨毯に倒され、腰と背中をしたたかに打った。
でも、いいこともあった。下衆野郎の手が外れたんだ。
俺は両手を突っ張った。
「やめろって言ってんだろ! この変態!」
ヘルマン伯が右手を振り上げるのが見えた。はっとした瞬間には左頬に激しい衝撃を感じて、首が右に振れた。火花が散る。目の前が一瞬真っ赤になって、息ができなかった。
返す手が、もう一度。今度は右側から来た。こっちの方が痛かった。手の甲の骨が頬骨を直撃した。
男の、本気の平手打ちって、こんな……。
頬が熱い。首が痛い。口の中、血の味がする。
ヘルマン伯が俺の胸元を力任せに開いた。ボタンがいくつも飛んでいった。
男の手がスカーフをむしり取る。
「うん? なんだ、これは」
指先がテオドールの噛み痕をなぞった。
全身に鳥肌が立った。心理的な嫌悪とはまた違う、生理的な拒絶反応だった。
「あいつ、アルファだったのか」
下衆の顔に、歪んだ笑みが広がる。
「オメガは番を持つと、番以外の男と寝るのは苦痛になるらしいな。それでか、お前が俺を拒んでいたのは。なるほど。テオドールは頭がいいな。こうすればお前はほかの男と寝られない。不貞の妃を抑えておくにはいい手だ」
「違う……っ!」
そんなんじゃない。彼はそんな、俺をけだものみたいに扱ったりしない。
ローヴァインで迎えた最初の発情で、彼が俺を抱かなかったのは、優しさからだ。肉欲に戸惑い、苦しむ俺を気遣ってくれた。いつだってテオドールは俺を尊重してくれる。
ヘルマン伯は早くも俺のベルトを外そうとしている。
俺は奴を膝で蹴った。とにかくなりふり構わず手足をばたつかせて暴れた。
右手がヘルマン伯の顎に当たった。
「くそっ、こいつ!」
右手を掴まれて、絨毯に縫いつけられる。左手も。クソ野郎は全体重をかけて俺を押さえつけてくる。
なんでこの身体はこんなに非力なんだ。男ひとり押しのけることすらできやしない。毎日ユーゴの散歩してたのに!
ユーゴはこの男の襲来を予期していたんだろうか。だから吠えたりして、「危ないよ」って知らせてくれていたのかな。
なんにも気づかない、ばかな俺。
ヘルマン伯が俺にキスをしようと迫ってくる。
俺は必死で顔を背けた。こんな奴とキスなんて死んでも嫌だ。もちろん死ぬのも嫌だ。
なんとかしなきゃ。なんとか。
両手は動かせない。
でも。
頭は自由だ!
奴が顔を上げたその刹那、俺は鼻先目がけて思いきり頭を突き出した。
ゴッと鈍い音がして、ヘルマン伯が仰け反った。
「うぉっ……」
鼻を押さえてうずくまっている。俺も額が痛かった。顔も首もあちこち痛い。だけど、痛がっている暇なんてない。
俺は這って逃げた。扉を開けて、外に転がり出た。
夫婦の寝室には鍵がかかる。
上手く動かない足でどうにか走った。目指す部屋に辿り着いて滑り込み、扉を閉める。
手が、ありえないくらい震えている。
鍵をかけた。安堵のあまり膝から崩れ落ちた。
震えが全体に広がっている。俺は自分を抱きしめるしかできなかった。
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