第九章 代償を払う時(4)

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第九章 代償を払う時(4)

 膝を抱えたその姿勢で、俺は少し眠っていたのかもしれない。しばらく記憶がない。ふと(まぶた)を開けると、廊下に足音が聞こえた。 「リシェ! どこだ?」  テオドールだ!  俺はがばと起き上がり、鍵を開ける。ちょうど同じ時に、扉の向こうに彼が来た。 「リシェ?」 「テオ」  扉を開けて、俺を見た瞬間、彼は目を剥いた。それで俺も思い出した。いまの俺はひどい恰好だ。頭突きをした額と殴られた頬は腫れ、唇の端は切れて、髪はぼさぼさ、チュニックはボタンもなく前が合わず、手首には掴まれた痕がくっきり浮き出ている。 「あ、こ、これは」  説明しようとした俺に、テオドールは自分の外套を脱いで被せた。  彼は外出の支度のままだ。調査に行った先から帰ってきた、その足で俺を捜してくれたんだ。  彼の手が控えめに俺の頬に触れる。そんなに痛くはない。でも、彼は声を張り上げた。 「医者を呼べ! リシェの手当てを!」 「あ、だ、大丈夫。ちょっと痛いくらいで、もう、そんなに……」  俺はそこで言葉を飲み込んだ。何も言えなくなってしまった。  息が。息が、できない。  テオドールの後ろにあの男がいたんだ。ヘルマン伯クレメンス・ミュラー。俺を襲った男。  俺は胸元をきつく掴んだ。総身を毛虫が這うようなおぞましい感覚に、吐き気を催す。歯の根が合わない。足下がぐにゃりと歪んで、床に沈んでしまいそうだ。 「な、なん、で、そいつ」  震えすぎて、上手く喋れない。  ヘルマン伯の近くにあの侍従が立っている。そこから二歩離れて後ろに、マルセルが。ふたりとも恐ろしく苦い雰囲気だ。  軽薄そうな顔の中心に布を当てたまま、ヘルマン伯は怒り狂っていた。 「貴様、よくもやってくれたな! 鼻が折れたじゃないか!」  あの頭突きで?  俺がもっと落ち着いていたら、「ざまぁみろ」くらい言えたかもしれない。だけど、情けないことに、いまの俺はぽかんと見返すことしかできなかった。 「ローヴァイン辺境伯! この落とし前はどうつけてくれるんだ! この淫売は俺の鼻を折ったんだぞ!」 「まずお聞かせ願いたい。我が伴侶リシェがなぜこのような姿をしているのかを」  テオドールの声は低く抑えられていた。それだけに、彼の憤怒を感じた。  俺は冷や汗が噴き出る。  ヘルマン伯はふんと鼻を鳴らした。そうしたら、鼻血が出たらしい。鼻の当て布に血が滲んだ。 「くそっ。いいか、ローヴァイン辺境伯。こいつは俺をベッドに誘ったんだ。自分から、淫らに股を開いてな。俺は断った。そうしたら、いきなり飛びかかってきてこれだ。鼻が折れた!」  この男、帰らずにローヴァインに残っていたんだ。テオドールに、俺が悪さをしたって訴えるために!  俺も怒りでおかしくなりそうだった。テオドールの前でそんな嘘をついて! 襲ってきたのはそっちなのに!  でも、同時に怖かった。  自分から誘った。断られて激昂した。それって、リシェがテオドールにやったことだ。彼がどう思うだろう。  テオドールが俺を見る。奥深く光る瞳は、何を考えているかわからない。  彼の視線が俺からヘルマン伯へと戻る。 「貴殿の鼻はいまはいい。私はなぜリシェがこのように殴られて、傷ついているのかと訊いたんだ」 「反撃したんだよ! 殴り返しただけだ!」  俺は首を横に振った。頭が揺れて、目眩がした。 「違う、違う。そいつが、いきなり、俺を。俺は帰れって、話したくないって、言った」  論理的な話なんかぜんぜんできない。不安すぎて寒い。 「不貞の妃の言葉など信じる者がいるか。あなたも不幸だな、ローヴァイン辺境伯。しかし、わかっていただろう? こんな汚物に慈悲を垂れても無駄なんだ。判決通り死刑にしておけばよかったんだ!」  俺は唇を噛んだ。切れたところがもう一回裂けた。 「……俺が汚物だとしても、お前の方がもっと汚物だろ! こんな、俺を陥れるような、卑怯な真似……っ」 「お前を陥れる必要などどこにある? もとより蔑まれているお前を?」 「俺は、なんにも、してない……っ」  気持ち悪い。  俺は口を押さえて上体を折る。吐いてしまいそうだった。  こいつの声も顔も、全部嫌いだ。早く出ていってほしい。  テオドールが俺に背中を向けて前に立った。 「よくわかった。ヘルマン伯クレメンス・ミュラー。ローヴァイン辺境伯テオドール・エメリヒの伴侶に狼藉を働いておいて、無事で済むとは思うな。厳罰を覚悟しろ」  ヘルマン伯が青ざめて、ぱくぱくと喘ぐ。 「まさか、その淫売を庇うのか?」  テオドールは腰に提げた剣の柄に手をかけた。 「あとひとことでも私のリシェを侮辱してみろ。その首叩き落とすぞ」  俺も胸を衝かれた。  彼は俺を疑わなかった。信じてくれたんだ。しかも、「私のリシェ」だなんて。  身体の震えが止まった。  ヘルマン伯は鼻の布を投げ捨てた。高い鷲鼻が右に曲がっていた。 「くそっ。お前もおかしいぞ。そんな使い古しがいいか?」  テオドールは本当に剣を抜いた。ヘルマン伯は悲鳴とともに飛び上がり、脱兎のごとく駆け出した。  外道の背中が遠ざかっていく。  気が抜けた。足に力が入らない。  俺はへたり込む。 「リシェ!」  テオドールが抱き止めてくれた。 「すまない。怖い思いをさせてしまった。こんなに傷ついて……」  彼のせいじゃないのに、彼は痛ましいほどの後悔を口にする。  俺は彼の胸に顔を埋めた。怖かったし痛いし腹も立っているし情緒が大渋滞中だけど、俺にはテオドールがいる。傷ついた時にすがれる胸がある。  召使たちが駆け寄ってくる。口元を拭かれ、頬に氷嚢(ひょうのう)を当てられ、水を与えられて、俺はほんの少し気分がよくなる。 「奥方様。申し訳ありません」  侍従が膝をついた。 「あの男が参ってすぐにテオドール様の元へ急使を走らせたのですが、指揮を執るべき私が役に立たず、奥方様を危険な目に遭わせてしまいました。どのような罰でも甘んじて受けましょう」 「あなたはどこにいたの?」 「ヘルマン伯を談話室へ案内する途中、廊下で後ろから殴られ、気を失ってしまいました」  それでこの人がいなかったんだ。見捨てられたんじゃなかった。使用人たちも指示をするべき人がいなくて下手に動けなかったのか。  ヘルマン伯め。あの男、何回言っても言い足りないくらい卑劣。 「あなたは大丈夫なの? 頭を殴られて気絶するって相当だよね?」 「私の身まで気遣ってくださるとは……。心配はご無用です。問題ありません」 「よかった」  侍従は頭を下げている。
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