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 目の前の毛むくじゃらの生き物はピクリとも動かない。白髪は肩口まで伸び、髭は胸元に達する。本物を見たことはないが仙人とはたぶんこんな外見をしているのかもしれない。  眼鏡の奥の細めた目は開いているのか、閉じているのかわからない。椅子に腰掛けたまま微かにうつらうつらしているようにも見える。  自分が今まで見てきた中で一番奇妙なこの生き物の様子を注意深くうかがいながら、太ももと両手の力をそっと抜く。 「……やり直し。軸がぶれた」  即座に指摘されてビクッとなる。  どうしてわかるんだろう?  どう見てもちゃんと見ていたようには思えない。今までもそうだった。椅子に腰かけてうとうとしてたり、他のことをしているように見えても、少しでも手を抜くとすぐに指摘される。  サトリという心を読む妖怪を思い出した。達人になると心の動きがわかるようになるのだろうか? いや、達人かどうかもまだ計りかねている。 「師範、どこからやればいいですか?」 「ナイファンチ立ちの下段払いから、中段受け、上段受けまでやるか」  耳が少し遠いせいか師範はいつも必要以上に大きな声だ。  結局、基本の受けが最初からやり直しになったのでがっくりくる。 「ナイファンチ立ち用意……構えて!」  師範の声に合わせて構えをつくる。  足のつま先をやや内側に向けて、肩幅より少し広い八の字をつくって太ももを内に締めた。この締めが緩いと師範はすぐにやり直しをさせるが、この状態を維持するのが想像以上にきつい。 「下段払い! いちっ! にい! さんっ!」  師範の号令に合わせて、「えいっ!」「えいっ!」と気合を入れる。師範以外には自分一人しかいないので、サボればすぐにばれる。  師範が二十まで号令を終えると、今度は中段受けだ。  胸の前で腕を交差させて、引き手をしっかり取りながら、受け手はスナップを効かせて外側に払う。師範はもう号令をかけるのに飽きてやめてしまったので、仕方なく自分で号令をかけて、自分で気合を入れる。  また師範はうつらうつらしているようにも見えるが、今度は騙されまいと手を抜かず、上段受けまでやりきる。いったん構えを解いて、体をほぐし、タオルで汗を拭く。  もう十月になり夕方は少し肌寒くなってきたが、体を動かすとすぐに汗が噴き出してくる。特に師範からの指示がないので、いつも通り基本稽古の続きを始める。  師範のところに通うようになってもうすぐ四カ月、基本稽古と移動稽古ばかりをさせられているので、さすがにもう順番は覚えた。ただ、自分がこれで何か強くなったという実感はいっさいなかったし、実際そうなのだろう。  始めるまでは空手の練習というのは相手と殴り合ったり、もっと危険なイメージを持っていたが、今のところそんなことは全くなく、運動音痴の僕でも何とかついていける範囲だ。  これからそういう練習も入ってくるのだろうか? そもそも師範以外はたまに来る内村先生しか一緒に練習したことがないので、組手みたいな練習が始まったら、まさかこのおじいちゃんと戦うのだろうか? 「はい、前屈やりなおし!」  ……しまった。  いつの間にか師範がすぐそばにたたずんでいる。 「前屈が高い!」  師範が僕の左足の太ももあたりをバシッと叩いて、膝を曲げさせる。この前屈立ちは見た目以上に脚にくる。特に運動とは無縁だった僕にとってはかなりきつく、すぐに足がプルプルなる。  指示通り前屈立ちでの中段突きを二十本、上段付きを二十本、左右構えをかえてやりきると、もう完全にギブアップでその場にへたり込んでしまった。  師範はそんな僕を見て、高笑いをしながら「小休止」と言った。
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