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 道場の壁にもたれて座りながら、持ってきた水筒で水分を補給する。もたれかかった古い道場の壁がギイギイと音をたてる。  道場と言っても師範の家を改築したもので、広さもそこまで大きくはない。一応、板張りの床で、壁には大きな鏡、隅には神棚が備え付けられていて道場っぽいが、肝心の門下生は今のところ僕一人だ。  壁に据え付けられている木製の名札には「師範、矢ヶ部義直(やかべよしなお)」、「師範代 内村千晴(うちむらちはる)」と続き、その後の門下生の欄に「後藤宏明(ごとうひろあき)」と僕の名前が続く。  僕の通う中学校の教頭をしている内村先生はたまにしか練習に来られないので、実質、二人で練習することがほとんどだ。  内村先生の話によると昔は門下生も多く、週に二回は市民体育館の武道場も借りて練習していたし、大学の部活動も見ていたので活気があったそうだが、今ではその面影もない。 「ひろ、これ食え、うまいぞ!」  師範が口をモグモグさせながら、手にお菓子を持ってやって来た。よりにもよってこの蒸し暑い中、最中は口の水分を持っていかれる。 「師範、僕は結構です。暑くて口の中ぱさぱさになるし」 「あ?」  師範は耳に手をやって聞こえない素振りをする。  本当に聞こえていないのか、それともふりだけなのか。師範の耳は都合よくできている。 「わしは昔から甘いもんが好きでな……」  聞いてもいない師範の話が始まり、無理やり最中を二つ持たされる。  仕方なくその最中の包みを開いて、口に入れる。柔らかな甘みが疲れを癒してくれるが、やっぱり口の中の水分を持っていかれる。 「師範、この後は移動稽古ですか?」  いつもの流れだと基本稽古が終わると道場の端から端まで延々と移動稽古をさせられる。師範の号令に合わせて、基本稽古で確認した立ち方から突きや蹴りを繰り出しながら移動する移動稽古は、これまた地味ながらかなりしんどい。  決まった動きを何度も繰り返して行うことで強くなっている実感はないが、少なくとも足腰の鍛錬にはなっているだろう。 「ああ、とりあえず突き、蹴り、受けを一通りするか」  そろそろ違う練習も加わるかと期待して聞いてみたがげんなりする。 「組手とかいつごろからするんですか?」 「あ? 組手がしたいのか? 痛いぞー。怖いぞー。歯とか飛ぶぞー」 「えっ⁉」  師範の脅しにビクッとなる。 「わしらの若いころは組手の練習終わったら、顔面血だらけ、歯が飛んだり、鼻が折れたりが普通だったからなぁ。本当にやりたいんだな?」 「……やっぱりいいです」  師範の確認に慌てて手を振る。半分、無理やり始めさせられた空手で怪我してはたまったものではない。  そんな僕の様子をみて、また師範は笑い出す。 「ほれ、びびりおって。まずはそのびびりが治らんと組手なんてさせられんな。だいたい、今どきそんな決闘みたいな組手をするわけないじゃろ?」 「じゃあ、歯が飛んだりはしないんですか?」 「普通にしてたらな。まあ、組手に関しては、そのうち内村のおっさんが来たら教えてもらえ」  師範と内村先生の関係も不思議なものだ。一応、師弟のはずだが、どうみても内村先生が師範のお世話をしているようにしか見えない。 「師範は教えてくれないんですか?」 「わしは基本と型、あと教えられるのは女と麻雀ぐらいだな」  師範はまた大きな声で笑い出す。空手の師範や達人と言うと今まで武に生涯をささげた高簾な人物のイメージだったが、この師範に関しては煩悩にまみれまくっている。  甘いものが好きな代わりにお酒は飲まないが、女性と麻雀をこよなく愛する自由人だ。 「でも、内村先生は師範をすごい人だって言ってましたよ」  師範は伸びた白髭を自分の手で溶かしている。これは師範の癖だ。 「わしのはただのはったりだ。この見た目でいかにも達人みたいに見えるだろ」  師範は笑いながらけむに巻く。
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