第28話 封印していた過去

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第28話 封印していた過去

「彼女の名前は菜々子と言いました。水島菜々子。僕より三歳年上の、芯のあるしっかりした女性でした。同じ大学の先輩後輩の間柄でしたが、彼女は卒業後動物愛護のNPОで働いており、僕がボランティアとして手伝うようになって、つきあうようになったんです」 当時を思い出すように、光は遠い目をして言った。 「菜々子さん、ぼ、僕とつきあってくださいっ」 「えっ、私あなたより年上よ?それに動物のことで頭いっぱいだし…」 「年齢とかは関係ありませんっ。それに、僕のこともいち動物だと思ってくれたらいいので、お構いなくです。僕はただ菜々子さんのことがすきですきで大好きなので、仕事に打ち込んでいる菜々子さんの支えになりたいんです」 「プッ、何それ。そりゃあ人間も動物の仲間だけど…光くんっておもしろい人ね」 「それが始まりで交際がスタートしました。不思議ですね、その時の様子が映画のワンシーンみたいに、今も鮮明に映像として浮かび上がる。菜々子の笑顔も、その時の日差しの眩しささえ、はっきりと思い出せる。もう十年近く前のことなのに」 「三澄さん…」 「つきあい始めてから五年くらいくらい経った頃かな。通報があったんだ。ラブラドールの子犬が虐待されてるって。その日は保護犬の譲渡会があり、人が出払っていて菜々子と僕が現場へ急行した。緊急性が感じられたからだ。その家は荒れ果てた一軒家で、ゴミ屋敷と化していた。チャイムを鳴らしても返答がなく裏庭にまわると、そこは地獄だった」 静かな住宅街には、怒号が響いていた。 「このクソ犬!お前のせいで嫁も子供も出ていったんだよ!顔見んのもうっとおしいんだよ!お前なんか殺してやるこの!この!」 そこには金属バットで子犬を殴打する若い男がいた。 「何してんの⁉やめなさい!」 菜々子はそこらへんにあった板で防御しながら、子犬をかばった。 同時に光はバットを抑え、男をねじ伏せた。 子供のころから合気道を習っていたので、見た目は細身でも素人を抑え込むのはたやすいことだった。 「何だよお前ら⁉勝手に人んち入んなよ!」 「こんな緊急事態にそんなこと言えるか!あんたのしてることは立派な犯罪なのよ⁉」 「うるせぇ!自分とこの犬どうしようとオレの勝手だろうが⁉こいつは嫁が連れてきたくせにあいつ他に男作って娘連れて出ていきやがった!最後にワンコの世話よろしくね、なんて置き手紙一枚おいてよっ。だからコイツ見てるとむかつくんだよ!」 「ふざけないでよ!この子はあんたの八つ当たりの道具じゃない!生きてるんだから!」 子犬はやせ細り、息もか細くなっていた。もはや抵抗する気力もなかった。 「すぐ病院に連れていくからね、もう少し辛抱して」 男はその後駆け付けた警官に逮捕され、連行された。 「病院で治療を受けると、子犬はその夜が山場だと言われた。僕と菜々子は必死で祈った。もはや祈ることしかできなかった。君が生まれてきたのはこんな苦しみを味わうためじゃない。ちゃんとした優しい飼い主のもと、幸せに、そして周りの人を幸福にするために生を受けたということ、そのことを知ってほしかった。幸いにも奇跡的に子犬は一命をとりとめた。だけどしばらくは人を怖がり、僕らにもなつかなかった。当然だよね、一番愛情を必要としている幼い時期に、そんなひどい目にあったんだから。その頃僕と菜々子は同棲していて、子犬を引き取って三人で暮らした。ありったけの愛情を注いでいくうちに、最初はおびえていたその子も、穏やかな表情を見せてくれるようになった。僕らは子犬をナナと名付けた。菜々子が助けたから、ナナ。幸せな毎日を送っていた中、あの事件が起こった」 六年前、朝から粉雪が舞う寒い日。 いつも通り、菜々子はナナを連れて出勤した。 光はその頃小説で大きな賞をとり、駆け出しの作家としてデビューしたばかりで、勤めていた会社も辞め、家で執筆活動をしていた。 「いってらっしゃい」 ふたりを見送り、デスクのパソコンに向かうと、妙な寒気がした。 「今日は冷えるな」 ゾクッ 何だか嫌な予感がした。 その時だった。スマホが鳴った。菜々子からだった。 「ウッ…ひかる…たすけ…」 「どうした菜々子⁉何があった⁉」 ワン! 窓から外を見ると、ナナがリードをつけたまま、白い息を吐きながら光を呼んでいるようだった。 少し先には、腹部から血を血を流しながら倒れている菜々子がいた。 周囲を見渡すと、刃物を持って逃げる男の後ろ姿が見えた。 「菜々子、菜々子ーーーーー!」 急いで駆け寄ると、最愛の恋人はぐったりとしていた。 カバンの中からタオルハンカチを取り出し止血する。 「…ナナは…?」 か細い声で光に尋ねる。 「ナナは無事だよ…ほら、菜々子の側にいるよ…」 ぺろ ペロペロペロ… 倒れた菜々子を心配するかのように、ナナは手のひらを舐め続けた。 「光…私…」 「しゃべらないで、今救急車呼んだから…」 何が起こったのかわからないまま、パニック状態になりながらも恋人に寄り添った。 「…光…ナナを…よろしくね…あの子は…私たちのこども…」 「そんなこと言わないで菜々子…」 涙が溢れて止まらない。 「光…愛してる…」 「それが、彼女の最後の言葉だった」 淡々と話す光とは裏腹に、華未は動揺し、泣きながら聞いていた。
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