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「そういう意味では、先生は恵まれているよね。マーケティングとか考えなくたって、向こうから依頼がひっきりなしにやってくるようなアーティスト人生を歩んできたんだから」
「私たちが知らない若い頃……それこそロシアにいた頃とかは、苦労したのかもしれませんけど」
「まぁな、でも先生がW賞をとったのって、二十二歳とかだったでしょう?」
「さらに二十六歳でフランスの賞をとって、そこからもう“天才アーティスト”の地位を確立していますからね」
「アーティストとしては、本当に恵まれていますよね」
“アーティストとしては”なんてわざわざ言ったのは多分、先生は活躍していた頃から、決してしあわせな人には見えなかったからなのだと思う。それは、独身だからとか、足が不自由だからとか、そういう分かりやすい理由ではなく、ただ先生からにじみ出ている雰囲気のようなものだった。
そんな話をしていると、太陽が少しずつ赤く染まり始めた。柔らかく赤く染まった空気が、西側の窓の領域に入り込んでくる。
西側の窓からは湖は見えず、遠くの山々と近くの畑や雑木林の風景が見える。湖の見える南の窓からの風景が“王道”の美しい風景だが、西の窓からの風景も悪くない。私はしばらく、風でそよぐ木々の動きや、雲の動きに心を奪われる。
ガラス作品の制作に関わり始めてから約十年。作品の美しさに心震わせることもあるけれど、それと同じかそれ以上に、“自然の美しさには敵わないな”と思う瞬間がある。そしてなぜだろう。そう感じるときに思い出すのが、工房を出て行ったときの遼の後ろ姿だ。
「こんなこと言ったら、先生に怒られそうですけど」
帰り支度を始め、スマホで渋滞情報などを確認していた新井さんに後ろから声をかける。
「南側の窓から見える景色が一番美しいのに、それがステンドグラスで見えなくなっているというのは、なんだか何かが矛盾している感じがしますね」
新井さんは振り返って言う。
「確かに、それだけは言っちゃいけない」
笑ってくれるかと思った新井さんは、意外と厳しい表情だった。
「自然の美しさと共存する作品を目指したり、自然の美しさを一つの目標にして、それを超える作品を創ろうと思うのはいい。でも、そうではなく、“こんなに美しいものがあるのだから、作品などいらない”と思うなら、それはただの負けであり、逃げだよ」
「それは……そうかもしれませんけど」
言いながらまた、遼の姿が思い浮かんだ。最終的に先生が遼の何に怒り、遼を追い出したのか、核心の部分を私は知らない。あのとき、遼と先生は違う部屋にいて、先生の最後のきつい口調と、部屋から飛び出した遼が荒々しく扉を開ける音だけしか私は聞いていないから。
でもその前から遼は“先生は逃げているんだ”とか、“先生の作品にはもう新しさがない”とか、そんなことを言っていた。けれど今、新井さんは、私の考えこそが逃げで、先生は逃げてはいないと言っているようなものだった。
「ま、小田さんが任されたのは西の窓のデザインだ。そこから見える風景や、湖の風景、すでにある二つの作品もよく見て考えるといいね」
新井さんの口調はもう、いつもの穏やかなものに戻っていた。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るけど……設置の時はもちろん、制作の段階でも手伝えることがあったら、気軽に連絡して」
私は改めてお礼を言い、新井さんを小学校の出口まで見送った。外はもう暗くなっている。廃校になった小学校の校庭に照明はもう点かず、近くの道路を照らす街灯の光が弱く届くだけだった。
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