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翌日再び小学校に出向き、デザインを仕上げた私は東京に戻り、翌日、工房へ行った。工房は、正式には「白糸ガラスアートデザイン」という“会社”なのだけれど、実態は先生の家の敷地内にある“別棟”みたいな建物で、一階が駐車場と倉庫、二階の八割が作業場、残り二割が応接室とちょっとした事務スペースといった感じの場所だった。
二年前まで、事務スペースには、外部との折衝役兼経理兼人事総務のような女性が一人、作業場には私や新井さんや遼を含む五人ほどがいて、工房は狭苦しいほど活気に満ちていた。でも今は、その余韻さえない。私が出張に行ってしまえば、工房は基本的には閉ざされてしまう。今も鍵を開けて工房内に入ると、作業台の上は二日前に私が退社したときのまま時を止めていた。
先生に「戻りました。工房にいます」というメッセージを送り、小学校へ持って行った作品設置の道具をしまったり、倉庫にあるガラスの在庫を確認したりした。先生と私のふたりでこじんまり仕事をするようになってからは、倉庫にどんな色のどんな質感のガラスがどれくらいあるか、ほとんど頭に入っていたが、創り始めてから足りないと分かると困るので、確認作業は重要だ。
倉庫にいると、先生が外から入ってくる。髪を後ろで一つにまとめ、ラフなワンピースを着た姿だ。自宅で寛いでいたのだろう。
「おつかれさま。向こうはどうだった?」
「向こうは三年前のままで、なんだか不思議な感じがしました」
言外に“こっちはこんなに変わってしまったのに”という意味を含ませたが、先生はさらりとかわした。
「田舎はみんなそんなものよね。東京にいると、そのギャップに驚くわよね」
「先生も会期中は一度ぐらい向こうに行きますか?」
私の言葉に、先生は小さく首を傾げる。“まだ私にも分からないわ”とでも言いたいのか。
「それより、デザインは完成した?」
私は「はい」と答え、倉庫の脇に置いてある鞄からデザイン画を取り出した。先生に自分のデザインを見せて評価を仰ぐなど久しぶりだ。もしかしたら、この工房の面接に来て以来か。
私のデザインは結局、かなりシンプルなものになった。山と湖が主役の、音楽室の南の窓から見えるあの町の風景がモデルのような絵だが、夕陽の赤が入り込んだときに映えるよう、空の部分の色はできるだけ抑え気味にした。
最初私は、夕陽のことは話さず、ただデザイン画だけを先生の前に広げた。先生はじっとそれを見た。そのときの先生の目は静かだけれど、真剣で、私は一瞬、昔の先生が戻ってきたような錯覚を覚えた。先生のまとう雰囲気が、すっと整い、張りつめたように感じた。
「うん、そうね」
先生はまずそれだけ言った。そして、ふっと息を吐き出す。それに合わせて、先生の周りの空気が緩む。
「悪くはないわ」
“悪くはない。でも……”と続きそうで、先生の言葉は続かない。あぁ、やっぱりここ最近のいつもの先生だ、と思う。第一線を退いてからの先生は、いつもどこかで何かに妥協しているように見える。
「ちょうどトリエンナーレの期間は、この窓から夕陽が見えるので、その赤を活かせないかなと思って」
「そうね。悪くはない。ただ」
今度は“ただ”まで先生は言った。
「ただ、何ですか?」
「あなたはこれを……一〇〇点、いえ、一二〇点だと思っている?」
そう問われ、私は返事ができなくなる。デザインを仕上げたときには、良いものが描けたと思ったくせに。
「夕陽の赤を作品に活かす、その発想は悪くない。でも、その発想を思いついたところで、このデザインは終わっている」
「どういう意味ですか?」
「……仕上がりを想像して、自分の胸が高まるような、そんなデザインを作りなさい」
先生からもらった、久しぶりのアドバイスだった。それが嬉しかった。でも「はい!」と力強く返事をしようと思ったとき、先生は独り言のようにつぶやいた。
「これじゃ、負けてる」
「え?」
私は聞き返したけれど、先生は驚いたような顔をして、「いえ、なんでもないわ」と言った。口にしようと思って口にした言葉ではなかったのだろう。でもだからこそ、それが先生の本音だと思った。
負けている……ということは、誰かに、もしくは何かの作品に……いや、あの場所の空気感とか風景とか、そんな抽象的なものにかもしれない。でもきっと、これはとても大切な勝負なんだ。もしかしたら、先生自身もそれに勝てないと思ったのかもしれない。だから、自分で西の窓の作品は創ろうとしなかった……。
「もう一回、あの場所に行ってきていいですか。自費で行きますので。……ただ、数日休みをください」
先生は「いいわ」と言って頷いた。
それで話は終わりかと思ったが、先生は珍しくガラスの保管されている箱を開け、一片のガラスを取り上げると、私に差し出した。それは少しくすんだ淡い紫色のガラスだった。先生が好きだと言った、陽が沈んだあと静かに残る空の色。
「気をつけていってらっしゃい」
先生はその色のガラスを私に差し出した理由は述べず、工房の二階に上っていった。右足の悪い先生は階段を一段ずつ足を揃えて上るから、慌てなくても先生にはすぐに追いつける。
「先生」
階段の途中にいる先生の背中に声を掛けた。先生は振り返らずに「何?」と言った。私の質問に答える気はないと伝えているような背中。小さくて頼りないのに、意志だけははっきりと伝えている背中を見て、今でもこの人は本当はカリスマ的な才能のある芸術家なんだと思った。
「じゃあ、行ってきます」
私は先生に訊きたかったことをすべて飲みこんで、自分の荷物の整理を始めた。
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