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才音
『東京から転校してきました、八重津響です』
今日までに間に合わなかったらしい、違う中学の緑色ブレザーとズボン。窓から差し込む光に透けて茶色く見えた短髪。目にかかる前髪が柔らかそう。身長は百六十五センチぐらい。モヤシみたいに痩せている。少しだけ頼りなく垂れた両目が優しさを伝えてくるようで親近感を感じた。緊張からか、彼は唇を固く結んでネクタイをしきりに触っていたっけ。
あの日から、私の見る世界の色彩か変わった。
生まれ変わったらと響は言う。そうだね、天国に行けたら確かに生まれ変わることができる。
でも、ごめん。私はそんなに長くは待てないし、生まれ変わって二人が出会える確率が酷く儚くて憂鬱になってしまうの。
だから、私達がこれから向かう場所は天国じゃない。自分が命を捨てて歌った本当の目的。三つめ、最後に神様に願ったことは……。
「響、行こう」
私はフワリと浮き上がり彼の手を引いた。
瞬間、空間が歪んで捻じ曲がり私達は奈落の底に突き落とされるように急落下。一点に向かって落ちてゆく。
もう一度、あの瞬間に……。
ハッと気がつくと、私の前には合唱部顧問の高岡先生がいた。彼は私の両肩を強く掴み呼吸を荒くさせている。吐く息は腐った魚。酷い悪臭だ。
そう、私は天国を願ったんじゃない。この瞬間までのタイムリープを神様に願った。それは、なぜか?自分が許せなくて憎かったからだ。
あの時、勇気を出して抵抗していれば響が先生をバットで殴り殺すのを阻止できたはず。震えていることしかできなかった自分。弱くて臆病な私が響を自殺に追い込んでしまった。
今頃、響は死神になって苦しんでるはず。
悔やんでも悔やみきれない。だから私は神様と会話のできる神父に会いに行ったのだ。
「大人しくしてればすぐに終わるから」
「やっ、やめて下さい」
先生が私を床に押し倒す。やっぱり怖い。刹那、扉がスライドし響がバットを持ってこちらに歩み寄ってくる姿が見えた。
「汚い手で才音に触るなっ!!」
異常に興奮している先生は彼に気づかない。下卑た笑みを浮かべ顔を降ろし唇を近づけてくる。半開きの口から覗く舌先。
今、勇気を出さなければ!
「やめて」
私は真下から先生を睨んだ。
「やめてください!」
舌先が触れるまで、後、数センチ。響は先生の背後でバットを振り上げた。私は限界まで両目を開き平手を拳に変える。
「やめろおおおーーっ!!」
今まで経験したことのない絶叫と共に、拳が風を左右に割って先生の顔面に直撃する。
「ぬおおーっ!!」
両手で鼻を押さえ、先生が横に倒れてダンゴ虫のようにうずくまった。響は上げたままのバットを振り下ろそうと構え直す。
「このエロ教師がっ!!」
「響、だめえーーっ!!」
私は即座に立ち上がり彼の胸に飛び込んだ。
「アナタが好き」
弱くてごめん。情けなくてごめん。でも……。
「響が大好きなんだよーっ!」
この瞬間から後の時間が欲しい。
「あっ……」
刹那、鈍い音を響かせ床にバットが落ちる。私は唖然としている彼の手を引いた。
「行こう、響」
「えっ、あっ」
「早く!」
「行くってどこに?」
「決まってるでしょ!家に帰るんだよ」
私は彼を引き摺るようにして昇降口を通り過ぎて学校外に出た。二人共、上靴のままだ。
あの瞬間は回避できたのだろうか?半信半疑が学校から逃げる足を止めてはくれない。握る手が、背後にいるのが響だと分かってはいても安心できなかったのだ。
いつもの帰り道、夕暮れの土手沿いを無言で歩く。するとグッと後方に腕が引かれた。彼が足を止めたのだ。
「才音」
恐る恐る振り返ると、響は肩を上下し、しゃくりながら泣いていた。
「ぼっ、ヒック、僕は先生を殺そう、ヒック、とした」
「うん」
「先生が君を襲う瞬間を見て、ヒック、血が逆流したんだ」
「うん」
「自分が、ヒック、自分じゃなかった」
「うん」
「才音、僕は君が、君を……」
「ストップ!」
私は踵を浮かせ背伸びをすると、彼の涙を止めたくて口付けた。それは一瞬、唇を離すと、予想通りの顔が視界を捉える。
「涙、止まったね」
緩く微笑む私。
「響の気持ちなら知ってる。二度も告らなくていいよ」
「えっ?」
彼は両目を見開いたまんま片足を後方に引いた。
「ぼっ、僕がいつ告ったの?」
「さて、いつかなぁ〜」
私は意地悪そうに口角を上げる。そしてクルリと向きを変えて帰路に足を進めた。背後から小石を踏んで歩く足音が犬みたいについてくる。
「ねぇ、いつ告ったの?」
「んー、ずっと前」
「ずっと前っていつ?中三?中二?」
「へぇ〜、転校してきてから私のこと好きだったんだぁ〜」
「えっ?あっ……」
「あははっ!」
でも、それは私と同じ。気にならなきゃ合唱部に誘わなかったよ。
「ねぇ、いつ告ったか頼むから教えろよ」
「んー、どうしようかなぁ〜」
「才音!」
千曲川の水面はキラキラ輝いて、何もかもがオレンジ色に染まっている。昨日と変わらない、いつもの楽しい帰り道。ようやく実感した。彼が生きて歩く道を私は手に入れたんだ。
風が吹いて、ところどころ伸びた雑草を揺らす。
『将来は歌手になればいいのに』
『だって、そんな綺麗な歌声を聴いたことないもん』
いつか、この場所で彼に言われた言葉が空を渡ってゆく。
響、アナタが隣にいてくれるなら、二度目の私は夢を諦めたりしない。全力で追いかけるよ。
傷跡が何も残らなかった訳じゃない。でも傷は浅い。秒針は着々と今を過去に変えてくれるだろう。
どちらともなく手を繋いだ。二人、寄り添いながら歩く一歩一歩に幸せが溶けて滲んでゆく。
私達の恋愛は、今ここから始まった。
◆
三年後
ライヴハウスは今日も熱狂で溢れている。オーディエンス達の高く突き上げた拳が天井を突き破る勢いだ。ステージ上、私は汗で濡れた手でスタンドマイクを引き寄せた。
「ラスト曲、私達のデビュー曲です。聞いて下さい」
「うおおおーーっ!!」
湧き上がる歓声の中、私は背後に立つギタリスト、ドラム、そして最後、ベーシストに目を向ける。彼とアイコンタクト。
『響、行くよ』
『OK』
私達は今年の夏にメジャーデビューを果たしたロックバンド。バンド名は【リワインド】巻き戻しという意味。過去に戻れたことにより、今の私達が存在しているからだ。
私はありったけの情熱をマイクにぶつけた。
箱ごと揺れる場内。最前列にはノリノリの神父の姿が見える。歌い終わると同時、神父はこう叫んだ。
「神様がアンコールって言ってますよ!」
「クスッ」
思わず笑ってしまう。
神様には絶対に逆らえない。私はアイコンタクトでみんなと会話。すると、ドラムのカウントから始まりイントロが流れた。ギターの音色に響の弾く弦が曲に深い奥行きを与えてくれる。
アンコールの歌は、さっきと同じデビュー曲。巻き戻したように歌おう。
曲名は「もう一度あの瞬間に戻りたい」
この曲が、神様の一番のお気に入りらしい。
有り難う、神父様。
感謝します、神様。
マイクを握る手に光るのは婚約指輪。もう、後悔は絶対にしない。
二人、一緒に歩いてゆくから。
生きて
未来へ……。
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