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「あら! 速水くんじゃない?」
ふりむくと、五十代くらいの女性教師と目があった。なんとなく顔を覚えてる。養護教諭の先生だ。僕が曖昧にうなずくと、その人は矢継ぎ早に言った。
「斎藤先生は授業中で。先生に用だったんでしょう?」
斎藤先生。その人が担任らしい。
よく覚えているものだ。僕は誰の名前も思いだすことができないのに。
「いや、用っていうか。あの、これを届けたくて」
差しだしたしおりを見て、その人は目をまるくする。
「図書室を使ったひとが落としたしおりだと思うんです」
「まあ、それのためにわざわざ?」
「じゃあ、用はそれだけなんで」
「図書室の先生に言っとくわ。またいつでも来てね。教室が行きにくかったら、保健室でも待ってるから」
きびすを返そうとした僕に、その人は優しい笑みを浮かべた。何を言うべきかわからなくなる。結局会釈だけをして、僕はその場をあとにした。
「ごめんね、ほんと無理言って」
校門で待っていた彼女は僕の姿を見た途端、拝むような仕草をした。
「全然いいよ」と僕はこたえる。
今もさっきの微笑が脳裏にはりついていた。
「しおり、渡せたの?」
「職員室に行ったら、ちょうど声をかけられて」
あそこで声をかけられなければ、いつまでも扉の前で立ったままだったかもしれない。何しろ担任の名前も覚えていなかったのだから。
「待ってるあいだ、後悔してたんだ。わたしも不登校だったから」
「過去形ってことは、今は行ってるの?」
彼女はハッとしたように少しだけ目を見ひらいて、そのあと力なく首をふる。
「ううん、結局行けなかった」
落とし物を届けたから、今日の任務は終わりだ。それなのに、まだ彼女と話したかった。こういうのは久しぶりだ。積極的に誰かと関わろうとするなんて。
「暇なとき、あなたはどうしてるの?」
「司でいいよ。あなたって柄じゃないし」
「わたしは柚葉。わたしたち、お互いの名前も知らないままだったんだね」
照れたように彼女が笑う。
僕はさっき柚葉に訊かれたことを思いだす。
「家にいても暇だから、あそこの公園でボーッとして……とくに何もしてないよ。少し前まではSNSで繋がったひとと話してたけど」
そのことをゆっくり思いだす。今まで、極力自分では思いださないようにしてた。知らないうちに内側にできた傷に触れそうで。そのまま忘れてしまえたら一番いいと思ったから。
「SNS?」
「同じ不登校の子がいて、フォローしたらDMでやりとりするようになって、一時は毎日話してたんだ」
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