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不思議な男子
電車のドアが開いて、車内に乗り込むとそのまま反対側のドアの前まで突き進む。
田舎町へ向かう電車なので、座席は空いているが、座らずに、いつもこの場所に立つ。
発車のベルとともにドアが閉まり、電車がガタガタンと音を立ててから動き出す。
車窓が流れるのを確認してから、昨日買ったばかりのお気に入りの作家の新刊をバッグから取り出した。
まず新刊のページをパラパラと捲る。この本の中には、どんな物語が隠されているのだろうかと思うこの瞬間がワクワクする。
表紙を捲りプロローグのページを開いた。さあ、読むぞとドアに体を預けた。
そこで、わたしに向けられる視線を感じた。
視線は向かい側の一番端の座席から向けられている。
読みかけたプロローグのページから顔を上げて、わたしに向けられる視線の方を見た。
そこには、わたしと同世代の男子が一人ポツンと座っていた。
彼はわたしと目が合った瞬間に目をそらし、下を向いた。
わたしも目をそらし、車窓に顔を向けた。目の前には住宅街が流れている。
もう一度新刊のプロローグのページを開いてみるが、彼の視線が気になり読みはじめる気にはなれなかった。
彼の方を見るとまた目が合った。
そこでまた彼は下を向いた。
わたしはまた車窓に顔を向けた。
住宅街だった景色は緑あふれる景色に変わっている。この緑も二ヶ月もすると赤色や黄色に変わるだろう。
彼のせいで、新刊はプロローグから進まない。しばらく彼の視線を気にしながら流れる車窓を眺めた。
電車が鉄橋を渡ると田畑が広がる。わたしの通う高校の最寄り駅が近づいている。
もう一度彼を見た。そこでまた目が合った。
彼はまた下を向いた。
わたしは目をそらさず、下を向いている彼を見つめ続けた。
わたしと同世代に見えるが、高校の制服姿ではない。学生ではないのだろうか。
そこで彼が顔を上げたので目が合った。
今度はわたしが目をそらして、車窓に顔を向けた。わたしの通う高校の校舎が見えた。次の駅で降りなければならない。
彼の視線のせいでわたしの体は熱くなった。
それから五日間、わたしは登校と下校の車内で彼の視線を感じ続けた。
日曜日に買った新刊のページはプロローグのまま進まなかった。
いつも、わたしが彼より後に電車に乗り、先に電車を降りる。
彼がどこの駅から乗って、どこの駅で降りているのかは知らない。
彼と出会って五日目の下校中。この日も彼の視線を感じながら、自宅の最寄り駅で電車を降りた。
いつも電車を降りる前にチラッとだけ彼に視線を向けてしまう。いつもそこで目が合ってわたしの心が跳ねる。
彼に対して恋愛感情が芽生えたのだろうかとも思うが、それとはちょっと違う。恋愛感情よりもっと深く愛おしい感情だ。運命的な出会いのような気がする。
電車を降りてホームを歩いていると「すいません」と背中から声がした。
この世のものとは思えない透き通った声に体中に電流が走った。足がピタリと止まり、体がゆっくりと回れ右した。わたしの意識とは関係なく、体が勝手に動いた。
そして、目の前に立つはにかむ彼の笑顔を見た。彼を抱きしめたいと思ってしまう自分の感情に戸惑った。
「今からお茶でもしませんか」
彼はわたしの目をじっと見つめた。彼の声は少し震えていた。
わたしは彼を目の前にして体がかたまってしまった。
「は、はい」
男子に対して臆病で警戒心の強いはずのわたしがなぜか即答した。
この時のわたしはクラスの男子に対するいつもの奥手なわたしとは全く違った。
必死で冷静さを保ちながら親友の美智子と何度か行ったことのある駅前のカフェに行くことにした。男子と二人きりでカフェに入るのは生まれて初めてのことだ。
「急に誘ったりしてごめんなさい」
彼は席に座るとすぐに頭を下げた。
「いえ」
わたしの体は熱くなっている。
「どうしても、君と話がしたかったんだ」
彼は思いきり息を吸い込んでから一気に吐き出しながら言った。彼も相当緊張している様子だ。
「ありがとう」
わたしは彼に礼を言った。
その時の彼は緊張しながらもはじけるような笑顔をわたしに向けた。
「アイスコーヒーってこんなにおいしかったんだね」
彼も喉が渇いていたのだろうか。アイスコーヒーのグラスはあっという間に氷だけになった。
彼は氷だけになったグラスを覗きこんだ後、わたしと話すことなく、カフェの店内を物珍しそうにキョロキョロと視線を巡らせていた。
彼はわたしとどんな話がしたいのだろうか。
「わたしに何か話があるんですか」
わたしがきくと、彼は慌ててわたしに顔を向けた。
「特に話があるわけじゃないんだけど、ただ君とこうしていっしょにいたかったんだ」
彼は頭を掻いた。
「わたしといっしょにいたいなんてめずらしいね」
彼の言葉は嬉しかったが、すごく照れくさかった。
「カフェってこんな場所だったんだね」
彼はまた店内を見渡した。
特におしゃれでこだわったカフェでもない。どこにでもある普通のカフェなのに不思議だなと思った。
「普段、カフェには行かないの?」
「うん、生まれてはじめてなんだ」
彼は照れくさそうに笑った。
「そうなんだ。今時めずらしいね」
「学校って楽しいの?」
「うーん、普通かな。楽しいような楽しくないような、そんな感じ」
「得意な科目はなに?」
「得意じゃないけど、好きなのは国語かな」
「やっぱりね」
彼がなぜ『やっぱりね』と言ったのか、この時はわからなかった。
「将来の夢とか目標はあるの?」
「特に夢とか目標はないけど、普通に進学して、就職して、結婚して、子供がほしいかな」
「へぇー、子供がほしいんだ」
彼は目を輝かせた。
「たいした夢でも目標でもないけどね」
「子供はなんにんほしいの?」
「そうねえ、なんにんでもいいかな。とりあえず元気な子供ならそれだけでいいわ」
「そうなんだ」
そこで彼の表情が少し悲しそうに変わった。
彼はわたしとこんなありきたりな会話がしたいだけだったんだろうか。
わたしからも勇気を出して彼に質問をぶつけてみることにした。
「いつもあの時間の電車に乗ってるの?」
「うん」
「わたしも月曜日から金曜日までいつもあの電車に乗ってるの。じゃあ、来週の月曜日もまた会えるね」
来週の月曜日からはドアの前に立つのはやめて、勇気を出して彼の隣に座ろうと決めた。
「でも、今日までなんだ」
彼は寂しそうに言った。
「今日までって?」
「僕があの電車に乗るのは今日までなんだ。だから今日は勇気を振り絞って君を誘ったんだ」
彼は俯き、唇を噛みしめた。
今日までということはこれから彼に会えなくなるということなのか。
なぜ、今日までなの? あなたはいつもどこの駅から電車に乗ってどこの駅で降りてるの? 何をしに行ってるの? 明日からはどこにいくの? どこに住んでるの? 名前は? 年齢は? きいておきたいことが山ほどある。
でも、わたしにはきく勇気はなかった。
カフェの窓から外を見た。日が暮れかかっている。
彼も窓の外を見た。
「遅くなっちゃったね。遅くなると、お母さんに怒られるよね」
確かに遅くなると母親はうるさい。しかし、このまま帰るわけにいかない。彼のことをもっと知りたい。
「じゃあ、そろそろ帰らないとね」
彼は悲しそうな表情を浮かべた。
「うん」
これからも彼に会いたい。こんな思いになるのは生まれてはじめてだ。
短時間で彼にきかなければならないことが山ほどある。とりあえず連絡先だけでもきいておこう。
「あなたの……」
わたしが言いかけたところで、「その前に」と彼が言葉を被せた。
「なに?」
彼がわたしの連絡先をきいてくるのか、それとも彼がわたしに連絡先を教えてくれるのかと期待した。
「君に渡したいものがあるんだ」
彼はそう言って自分のカバンをテーブルの上に置いて手を突っ込んだ。
「渡したいもの?」
わたしは彼の顔を覗きこんだ。
「うん、実はこれなんだけど」
カバンから出てきた彼の手には一冊の本が握られていた。そしてその本をわたしの前に滑らせた。
わたしはその本に視線を落とした。
『しあわせな人生だったよ』
タイトルにはそう書いてあった。
「これ、ぼくが書いた本なんだ。君にぜひ読んでほしい」
彼はわたしの目をじっと見つめた。
キラキラ輝くその瞳に吸い込まれそうになった。
「この本をわたしにくれるの」
わたしは本を手にとり、表紙を捲ろうとした。
すると、彼が「待って」と言って、表紙を捲ろうとするわたしの手をおさえた。
わたしは彼の方を見た。
「どうしたの?」
「今は見ないで」
彼は照れた笑みを浮かべた。
「どうして?」
「恥ずかしいから」
彼ははにかんだ。
もしかしたら、この本は彼からのラブレターかもしれない。ここに彼の名前や連絡先が書いてあるかもしれない。わたしは勝手にそう期待した。
「また、会えるかな?」
カフェを出てから思いきって彼にきいた。奥手なわたしの口からそんな言葉が出たことに自分でも驚いた。
「絶対に会えるよ。それもずっと長い期間」
彼はニッコリ笑った。
「ほんとに?」
「ほんとだよ。君と僕はつながってるから」
彼は自信たっぷりに言った。
彼の態度を見て、さっきの本に彼の名前や連絡先が書いてあるものと確信した。
なぜかわたしも彼とはつながってるような気がした。
「じゃあ、またね」
彼は駅へと歩いて行った。わたしはカフェの前で彼の後ろ姿を見送った。彼が改札に入る前に、わたしの方に顔を向けた。
わたしは彼に向かってペコリと頭を下げた。
彼は右手を小さく振った。
彼の姿が見えなくなった。
本当にまた会えるのだろうか。
さっきバッグに入れた本を取り出した。
ここにはどんなことが書いてあるのだろう。
表紙を捲りかけたところでやめた。
家に帰ってからゆっくりみよう。
本をバッグにもどして帰路についた。
「ただいまー」
「美咲、遅かったわね。どこ行ってたのよ」
キッチンから母親の声がした。
「ちょっと、駅前のカフェで友達と話してたら遅くなっちゃった」
キッチンに向かって言ってから、自分の部屋に入った。
「誰といっしょだったの」
母親がわたしの部屋を覗いた。
「駅前のカフェで美和子と話し込んじゃった」
親友の名前を出した。
「あら、そうなの」
母親はそれだけ言って戻って行った。
部屋から顔だけ出して、母親の姿が見えなくなったのを確認してから、ベッドに座り、彼からもらった本をバッグから取り出した。
両手で目の前の高さに持ち上げて表紙の文字を読んでみた。
『しあわせな人生だったよ』
どういう意味なんだろう。
表紙に右手をかけた。心臓がバクバクする。
表紙を開いて一ページ目をみてみる。
そこには何も書いていなかった。
二ページ目をみてみる。
そこにも何も書いていなかった。
そこからパラパラとページを捲ってみた。
しかし、どのページにも何も書いていなかった。
何度も何度もページを捲った。
やはり、何も書いていなかった。
彼は渡す本を間違えたのか。
本当に彼にまた会えるのだろうか。
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