しあわせな人生だったよ

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しあわせな人生だったよ

「なんで俺たちがこんな目に遭うんだよ」  夫の洋輔は病院の椅子に座ったまま頭を抱えた。 「ごめんなさい」  わたしは洋輔に頭を下げた。  涙が膝にポツンと落ちた。悲しいというより悔しい涙だ。  洋輔の気持ちはわからなくはないが、洋輔の今の態度にわたしは納得がいかない。 「美咲が悪いわけじゃないよ。俺より美咲の方が辛いんだから」  洋輔は立ち上がりわたしの髪の毛を撫でてくれた。  その言葉にも納得いかない。わたしはまったく辛くないのだから。  わたしたちの子供が生まれたのに辛いわけがない。しあわせしか感じない。 「わたしはこの子が生まれてしあわせよ。だからこれから一生懸命この子を育てるの」 「でも、キツイぞ」  洋輔はまたわたしの納得いかないことを言った。この子といっしょにいることをなぜキツイと言うのか。しあわせなはずなのに。 「大丈夫よ。わたしたちの元に生まれてきてくれた大切な命なんだもの」 「けど、この子は一生、何も話さないし、何も聞こえないんだぞ。俺たちのことを自分の親だとわからないんだぞ」 「そんなのわからないじゃない。この子はわたしたちのことがわかってるかもしれないし、わたしたちの話し声も聞こえてるかもしれない。わたしはそう信じてこの子を育てるわ」  わたしと洋輔の間に生まれてきた子は健と名付けた。  わたしは健が生まれてしあわせで、健のことがずっと愛おしかった。  しかし、洋輔や他のみんなは、わたしのことを可哀想だと言う。なぜそんなことを言うのか。わたしは健が生まれてしあわせなのに。   「この子は生まれてこなかった方がよかったのかもな」  義父が言うのをきいて辛かったし腹が立った。  わたしの大切な健のことをそういう風に言わないでほしい。 「こんな子が生まれて、うちの洋輔が不憫だわ」  自分の孫なのに、義母はなぜ健のことを『こんな子』なんていうのだろう。  洋輔の両親は、その後ほとんど健に会いにこなかった。  洋輔も義務を果たすようにたまに病室に顔を出すだけだった。彼はいつも仕事が忙しくてと口にした。  わたしだけが毎日健と過ごした。  健を一人占めだ。  わたしの両親は、そんなことをしても健には伝わらないんだから、あなたが疲れるだけよと言う。  わたしの母親も父親もなにもわかっていない。  誰も健のことを邪魔者のように扱い、可愛がろうとしない。  健が読書好きになってほしいと、わたしは毎日ベッドに横たわる健に本を読み聞かせた。 「そんなことしても健には聞こえてないんだぞ」  洋輔はわたしを心配してくれているのだろうが、わたしはその言葉に苛立った。 「健はわたしの言葉をちゃんと理解してるの。わたしが本を読んであげると、健は嬉しそうな顔をするんだから」  洋輔に対して刺々しい言葉になってしまった。 「そうか」  洋輔は呆れたように言った。  みんなは健がこんな体で生まれたことでわたしたち夫婦が不幸だと言う。  わたしは全然不幸だとは思わない。わたしは健が生まれて、しあわせしか感じない。  ただ、健には申し訳ない気持ちでいる。  生まれてからずっと病室のベッドの上で、立ち上がることも歩くことも、話すこともできない。  わたしは健のおかげでしあわせだけど、健は不幸なのかもしれない。 「健、こんな体に生んでごめんね」  毎日最後に、健の頭を撫でながらそう話しかけた。  わたしは健といっしょにいる日々がしあわせだった。  しかし、そんなしあわせな日々もたった十七年で幕を閉じた。  健は十七歳の秋にこの世を去った。  話すことも歩くこともできないままこの世を去った。  十七歳なんて若すぎる。人生これからなのに。健には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。  元気な体で生んであげられてたら、健はもっと楽しくしあわせだったろうにと思うと涙が溢れた。  健がこの世を去って、洋輔はわたしの前に離婚届を突きつけた。  彼はこれで義務は果たしたということなのだろう。  このまま夫婦を続けてもうまくいくはずがない。わたしはすぐに離婚届にサインをして彼に突き返した。  生まれ育った実家に帰った。  両親との会話がはずむわけもなく、わたしは自分の部屋に引きこもりがちになった。  部屋は結婚前とほとんど変わっていない。  持ち帰った荷物を整理する。  健に読み聞かせた本を取り出した。健との思い出が詰まった本を一冊ずつ読み返してみた。  読む度に涙が溢れる。  健との思い出の本を収納していこうと本棚を眺める。  本棚には学生の頃に読んだ本がビッシリと並んでいる。  そこに一冊だけ本の列から少し飛び出た本がある。  懐かしい本だ。この本のことは忘れていない。  これはわたしが健と同じ十七歳の時にある男子からもらったものだ。彼とカフェに行って、別れ際にこの本をもらった。  その時、彼はまた会えると言ったが、結局彼とは会えなかった。  この本に彼からのメッセージが書いてあるものだと思いワクワクしながら帰路を急いだ日のことを思い出す。  家に帰ってから急いでページを開いたが、彼が渡す本を間違えたのか、本には何も書いていなかった。  手に取った本の表紙に視線を落とす。 『しあわせな人生だったよ』  彼はどういうつもりでわたしにこの本を渡したのだろう。  何気なく表紙を捲った。  一ページ目に視線を落とす。 『ぼくのかあさんへ』  一ページ目に二十五年前には書いていなかったはずの文字があった。  急いで二ページ目を捲った。  そこにも文字が書いてあった。 『プロローグ 母さん、僕を生んでくれてありがとう』  二ページ目にはそう書いてあった。  わたしは急いで次のページを捲った。
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