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ワセリンの感触が嫌いだ。
だから怪我をしないように闘う。一度リングに上がれば、相手に背を向けて逃げ出すことは許されない。全身の皮膚がひりつくような緊張感を胸に、僕は相手と向かい合う。
歴戦の選手たちが激闘を繰り広げたキャンバスには、いくら磨いてもとれない黒ずみが点々と散ら撒かれている。古い血の跡だ。僕はそこに新たな軌跡を残さぬよう、細心の注意を払って拳を振るう。
ひとつひとつの攻防に、感謝を込める。闘う相手がいるから、僕はこの場所にいられる。自分の存在意義を確かめられる。闘いの果てにある、勝つとか負けるとかいう結果は考えない。ただ一瞬一瞬を繋ぎ合わせ、自分を未来に運ぶために、僕はいま、出来る限りのことを積み重ねていくのみだ。
僕に挑むべくリングに上がった対戦相手は、三つ年下のスーパールーキーと持て囃される少年だった。極限まで鍛え上げた肉体は、彼が今まで積み上げてきた努力の賜物。まだ少しあどけなさの残る顔とは不釣り合いの体から繰り出される攻撃は、隙あらば僕の意識を刈りとろうと、鋭い鎌のように眼前を振り抜いていく。
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