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ほんとうにそうなのだろうか。口にせずとも、僕は工藤と再び相まみえるのを楽しみにしていたのではないか。あの試合以来、ジムの垣根をこえて工藤はなぜか僕に懐いてくれていた。屈託なく接してくる工藤のことを、僕も可愛い後輩が出来たのだと感じていた。僕が護り続けていた王座を奪い取ってくる相手は、もしかすると工藤なんじゃないかとさえ、期待していたはずだ。
今はもう思い出せない。ボクシングに打ち込んでいた情熱も、リングに立ったときに感じるひりつく高揚感も、あれほど嫌がっていたはずのワセリンの感触も。そこにあった自分の気持ちのなにひとつも、思い出せない。心に開いた大きな傷口から、僕が抱えていた大事なものがどんどんと流れ出ていってしまっているのではないか。どんな絆創膏を貼っても、ワセリンを塗りたくっても、閉じることのない傷。僕は自分が思っているよりもずっと大きな絶望を感じていたのだとわかった。
事故から半年が経ち、ようやく僕も日常生活に戻れるようにまで回復していた。ボクシングを失った僕の人生の、なにが日常なのか。現役を退いた僕の居場所は、どこにもなかった。
「唱飛さん!!!」
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