第1章 七の女王

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 七音は男の横顔を必死に見上げた。あの日。桜並木の下で、七音に声を掛けてくれたあの人だったのだ。七音の心臓が高鳴る。  男の目の前にいる鎌田と高崎は互いに気まずそうに視線を逸らす。それから、「だって、こいつが」とか、「おれは悪くない」とか、互いに責任の所在を擦りつけ合っているようだった。 「大丈夫?」  二人の闘志が萎えたことを確認したのか。男は七音を振り返った。あの時見た、形のいい唇が弧を描いた。 「あ。あの。あ、あ、あり、ありがとう、ござい、ま……」  七音は頭を下げた。と、不意に体が後ろに引っ張られた。そうだ。まだ女王争奪戦が終わったわけではないのだ。  背後から伸びてきた逞しい腕が、七音の制服を掴んでいた。振り返ると、柔道着の男が見えた。  七音は、男の手を振り払おうとからだの向きを変えようとしたその時。大きくバランスを崩した。そこは階段の上り口だ。七音の体は大きく揺らぎ、あっという間に足を踏み外した。 「危ない!」 「ああ!」  周囲の叫び声に、自分がどういう状況に陥ったのかを理解する。 (落ちる。僕、落ちるんだ——)  七音を助けてくれた男の腕が伸びてくるが、それは虚しくも七音の指をすり抜ける。 (もうダメだ)  七音は落下後の衝撃を想像して覚悟を決める。真っ逆さまに落ち込む中、態勢を変えられるほどの身体能力は持ち合わせていない。落ちた瞬間の衝撃を少しでも和らげようと身を丸める。と、暖かいものに包まれた気がした。  恐怖で体温が急激に下がったからだに触れる、その温もりは——。  ドンという鈍い音と衝撃に歯を食いしばる。口の中に鉄の味が広がった。しかし、思ったよりも痛くはない。 「ううう」と低い唸り声にはったとした。慌てて目を見開いてから、からだを起こすと、自分の下には獅子王がいた。 (獅子王先輩!?)  彼は七音をかばって一緒に落下したのだろう。頭でも打ちつけたのだろうか。彼はその逞しい腕で自分の頭を押さえると、首を横に何度も振った。 「あ……っ、あ……」  言葉が出ない。七音は獅子王のからだに触れた。どこか怪我をしていないかと心配になったからだ。  両手であちこちに触れると、「くすぐったいから止めてくれ」と獅子王の声が聞こえた。 (だって。だって——) 「獅子王先輩! もう、無茶するんですから!」  階段上から、七音を助けてくれた男、それから高崎や鎌田、柔道部の男が駆け下りてきた。  獅子王はむっくりと立ち上がると、七音の肩に手を置いた。不安と恐怖の気持ちが、まるでその手のひらに吸い取られていくように、心が軽くなる。 「すまん。こんなつもりはなかった」と柔道着の男が獅子王に頭を下げる。 「おれに謝るなら、七音に謝れ。こんなに震えて。怖かっただろう?」  獅子王は七音の手を、その大きな手で包み込んだ。そこで初めて、自分が震えていたことに気がついた。そっと視線を上げると、獅子王の優しい瞳が七音を見つめていた。なんだか気恥ずかしくて、視線を逸らす。 「お前は大丈夫か? 獅子王」  鎌田や高崎は獅子王のからだを観察していた。 「おれは平気だ」 「平気って。お前——」  鎌田は階段を見上げた。15段以上もある階段だ。そこを、七音をかばいながら落ちたのだ。無傷というわけにはいかないだろう。 「おれを誰だと思っている。こんなこと。大したことない。それよりも。こんなところでうろついているな。どうせ、心は決まっているのだろう?」  獅子王の手には、七音の入部届が握られている。いつの間に取られたのだろうか。七音は恥ずかしい気持ちになって俯いた。 「う、歌。歌える、でしょうか……」 「ああ、歌えるさ。お前はいい声をしている。きっとうまくなる」  獅子王は笑みを見せると、七音の頭を撫でた。高崎も鎌田も。誰も文句を言う者はいなかった。  家族は口を揃えて「写真部がいい」と言っていた。それは正しい選択だということも理解していた。けれど。七音の心は違った。心が。合唱部を望んだ。  ずいぶんと悩んだ。今まで生きてきて、こんなに悩んだことはなかったかもしれない。  だからこそ。この選択は正しいと信じたい。自分で決めたのだ。できるかどうかはわからない。自信もない。けれど。  ——やってみたい。  そう思ったのだ。みんなが、七音のことを「七の女王」と呼ぶ中、獅子王だけは違った。 (僕の名前。ちゃんと呼んでくれる。この先輩だけは……)  獅子王は七音の入部届を掲げると地の底にまで響き渡るような声を上げた。 「ここに宣言する。七の女王である篠原七音は、合唱部がもらい受けた。いいな。今後一切、他の誰にも手を出すことは許されない」  獅子王という男は、その名の通り王だった。そこにいる誰もが、彼の宣言に逆らうことはできない。鎌田も高崎も顔を見合わせて肩を落とした。  七の女王争奪戦は、あっけなく幕を閉じたのだった。
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