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スタンプラリー2024
突然の喧騒に顔を上げると、10人ほどの人々が店内に駆け込んできたところだった。しかめ面をして髪や肩を拭いている様子を見るに、どうやら急に雨が降ってきたらしい。彼らと真逆――店内奥の見晴らし窓へと視線を向ければ、確かに激しい雨に外の絶景が掻き消されている。少し前まで、晴れ渡った空と凪いだ海が豊かな青色のグラデーションを織り成していたのに、すっかり灰色のスクリーンが下りてしまった。
あーあ、参ったなぁ。今日中に、あと1ヶ所回る予定なんだけど。
近くのベンチに腰を下ろして、スマホのお天気アプリを開いてみる。レーダーの予想によると、この雨雲はあと1時間もすれば南西に消えるようだ。仕方ない。当分雨宿りか。
買ったばかりのコーヒーの紙コップを傾け、溜息ごと喉の奥へ流し込む。
天気の急変なんて、よくあること。多少のハプニングくらい楽しめなきゃ、こんなチャレンジは続けられない――よね。
「だから、先に槇村記念館に行こうって言ったんだよ」
恭也は、眉間に不満を宿したまま、太さが不揃いの黒っぽい田舎ソバをズズッと啜る。
「でも、雨の予報はなかったじゃない」
私は左耳に掛けた髪を押さえつつ、くるりと巻いたゼンマイの新芽と一緒に、やはり田舎ソバを静かに啜る。旬の山菜の青臭さが、力強いソバの香りに絡みながら鼻を抜けていく。うん、美味しい。ここの山菜ソバは“当たり”だ。
「天狗峠を越えたら、もう山に入ったようなもんだろ。予報なんて当てにならないんだって」
「……分かった。悪かったわよ」
釈然としない。けれど、私が折れる。これ以上ぐちぐち言われるよりは、マシ。彼とは久しぶりのデートだし、職場の先輩だし……また明日も顔を合わせるんだから。
「このスタンプラリーを回るのはさ、俺、3年目だって言っただろ? この辺りの土地の天気は、沙莉奈より詳しいんだ。信用してくれよな」
「ん……そうね、ごめんなさい」
1つ前にスタンプを押した「3.竜神池」のビジターセンターを出るとき、同じくスタンプラリー参加中の家族と言葉を交わした。彼らは、竜神池から臥竜山の山麓を15km上ったところにある姥桜神社から来たと言う。神社の御神木の姥桜は、県の天然記念物に指定されているけれど、樹齢200年を越え、開花期間が極端に短いことでも知られている。その桜が八分咲きで美しかったと教えてくれたのだ。
『満開になると混み合うから、今がちょうど見頃ですよ』
人の良さそうなご主人の言葉に、私はその気になった。けれども恭也の頭の中では、姥桜は来週の桜祭りに合わせて訪ねるつもりで、今日は山の反対側の槇村記念館に向かう予定だったらしい。
『来週になったら満開を過ぎちゃうかも知れないし、折角ならゆっくり見たいわ』
しばらく憮然とした表情を浮かべたものの、彼は私の希望に応えてくれた。なのに、天狗峠を越えた直後、突然雨が降り出して……姥桜神社に着いたときには、乗ってきたバイク諸共ずぶ濡れになっていた。赤紫色の花弁から滴る雨粒を恨めしく眺めながら、私たちは神社の隣にあったソバ屋に避難するしかなかった。
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