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『雨に泣いていたけれど、姥桜は見事だった。神社横の「ソバ源」の山菜ソバ(780円)は美味しい。恭也の機嫌が良ければ、もっと美味しかったのに。』
「ぐるっと・まるっと 辰深周遊スタンプラリー2024」。表紙に、ご当地キャラクターの青い竜「シンシン」のポップなイラストが描かれたスタンプラリーの台紙――スタンプ帳を捲る。「17.姥桜神社」のページには、鳥居と姥桜がデザインされた青紫色の丸いスタンプが押してあり、縁が少しだけ滲んでいる。同じページの右下に数行用意されている「想い出メモ」欄に書いた自分の文字も、微かに揺れていた。
私が……ワガママだったのかしら。
後條恭也と付き合い始めたのは、今から2年と少し前。元々、就職して配属された企画部の先輩で、私の教育係だった。失敗をフォローしてくれる姿に頼もしさを覚え、仕事帰りに“反省会”と称して食事を共にするようになり、互いを異性として意識し出すまであっという間だった。休日にバイクで走るのが共通の趣味だったことも、2人の距離をグッと近づけてくれた。
「スタンプラリー、ですか?」
「あれ、知らなかった? 俺、毎年チャレンジしているんだけどさ、なかなかコンプリート出来ねぇの」
私たちが暮らす豊深田市に隣接する辰深地方は、S県南西部に位置し、1市7町5村の自治体からなる。若者の豊深田市への流出が止まらず、深刻な高齢化と過疎化が進んでいるが、海も山も豊かな自然が広がる地域だ。「辰深」の名前が示すように、竜神伝説にまつわる観光名所が多く、そこに着目して、5年前に始まったのが、辰深地方を満遍なく巡るスタンプラリーだった。
「ツーリングにちょうど良い距離だし、現地の食べ物は美味いし、楽しんで回っている内にスタンプも貯まっていくんだよ」
「わぁ、一石三鳥じゃないですかぁ」
「だろ? 安東も、今度の週末一緒に行くか?」
この頃、すっかり後條先輩に惹かれていた私は、二つ返事で頷き、舞い上がった。
スタンプラリーの押印場所は35ヶ所あり、開催期間はGWから9月末日までの約4ヶ月間。恭也に誘われたのが7月の終わり、この時点で彼のスタンプ帳には、既に11個のスタンプが押されていた。私が今からコンプリートを目指すのは難しいけれど、彼と過ごす週末が続くのならば、コンプリートなんてどうでも良かった。
「目的地は、俺に任せてくれる?」
「はい、お願いします!」
あの頃の私は、素直に恭也を頼り……甘えることが出来ていた。
「……分かっていたのにね」
思わず声に出てしまう。
彼は、自分がリードすること、頼られることの好きな男性だった。
「ごめんな。自己主張の強い女って……苦手なんだ」
後輩の桑岡美結との意味深なLIMEのメッセージを追求すると、恭也はあっさり浮気を認めた。悪びれる振りもない横顔。私に未練はないらしい。私の瞳にも、彼の姿はくすんで見え、感情を修復する努力も期間もないまま別れを決めた。思えば、些細なすれ違いと衝突が少しずつ積み重なっていた。それは、互いの嗜好の食い違い――観たい映画だったり、行きたいレストランだったり、飲みたいワインだったり。
紙コップに残ったコーヒーを飲み干す。苦く感じるのは、すっかり冷め切ったせいかしら。
「あーあ……」
嫌いになった訳じゃない。がっかりしたんだ、彼に。
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