19人が本棚に入れています
本棚に追加
31.角立岬
予想より早く雨雲は消え、ここ鱗光台には真夏の日差しが戻ってきた。スマホに写真を数枚収めて、愛車のYZF-R25に跨がる。ここから一旦南に下り、県道に合流してから20kmほど北西に走らせると、次の目的地「31.角立岬」だ。その駐車場に建つ観光案内所の中に、スタンプ設置場所がある。
角立岬は、先端の崖下の海中から真っ直ぐに伸びる、約40mの奇岩が地名の由来だ。この岩には、竜の落とした角が突き刺さって出来たという伝承が残っている。
駐車場の隅のバイク置き場に愛車を駐める。既に大型が3台並んでいた。8月に入り、本格的な夏休みシーズンに突入したことで、どこも駐車場はほぼ満車。観光バスも来ている。
お昼時は過ぎたけれど、きっと観光案内所は混み合っているから、スタンプはあとにしよう。岬の先端までは、ゆっくり歩いて15分程度。緩やかにそよぐ海風が潮の香りを運んで心地良い。
そういえば――昨年、恭也と正式に付き合うことになったのは、この場所だった。彼に手を引かれた遊歩道。あのまま手を引かれるだけの女だったら、今年も2人で辿ったのだろうか。だけど、そんな窮屈な生き方、私には無理だ。たとえ小石に躓いて転んだとしても、私は私。後悔はない。
奇岩とダイナミックな景観をスマホに収め、何度も深呼吸した。岬の先端から戻る頃には、すっかり心が軽くなっていた。ここはパワースポット、竜神様の御利益があると言われる。
観光案内所の中は、案の定混んでいたけれど、奥のスタンプ設置場所は空いているようだ。地元の海の幸などの特産品販売コーナーを抜けると、早速スタンプ帳を出して、角立岬のページを開く。
「あっ、お姉さん、ちょっと待って!」
「ひゃっ?!」
スタンプを持ち上げた途端、横から伸びてきた手に腕を掴まれた。
「あ、ごめんなさい!」
ギョッとして見上げると、茶髪の若い男性が慌てて手を離す。身を強張らせた私に気がついて、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「そのスタンプ、インクが切れていて、押すと……ほら、かすれちゃうんです」
彼のスタンプ帳には、半分だけ薄くインクの付いたスタンプの欠片がある。失敗の証拠を見て、彼の親切を知った。
「本当ね。ご忠告、ありがとうございます」
私が表情を緩めると、男性はクシャッと笑顔に変わる。なんだか憎めない、幼い笑顔。
「これ、ここの人に伝えました?」
「あ、いえ、まだ」
「じゃあ、それ貸してください。伝えてきますから」
「えっ? あ、はい」
彼の手からスタンプ帳を取り上げて、私は管理事務所の窓口に向かう。
「すみません! あそこのスタンプなんですけど……」
掠れたスタンプを見せると、職員の女性は頭を下げた。すぐに大判のインク台を出してきて、スタンプの横に設置した。
「ご迷惑おかけしてすみません。このスタンプ台を使ってください」
私は、自分のスタンプ帳に押印した。スタンプ台のインクは黒で、スタンプから滲み出る青紫色のインクと混ざり、不思議な色になった。
「あんまり綺麗じゃないけど……これも想い出ね」
押したばかりのスタンプは、インクが前のページに染みてしまう。裏移りすると折角のスタンプの模様が見にくくなるので、私はインク取りの紙を挟むことにしている。その紙は何枚か予備がある。まだ未使用の紙を1枚摘まむと、私は隣の男性に渡した。
「はい、あげるわ」
「え?」
「これにスタンプを押して、あとからそのページに貼るのよ。上から押しても汚くなっちゃうでしょ?」
「そっか! ありがとう、お姉さん!」
「いいのよ、お互い様。じゃあね」
パアッと日だまりみたいな笑顔で素直に受け取った男性を残して、私はその場を離れた。今日の予定はここで完了。しばらく休んでから、家に帰ろう。
最初のコメントを投稿しよう!