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渡良瀬繭の手紙はそれで終わっていた。薄紅色の便せんにきれいな毛筆でしたためられたその手紙からは微かなお香の匂いがした。
「なんて書いてあったの、さや姉」
小田香ナーナのそんな声はもう爽には聞こえていなかった。
越後の山々を見上げながら東京を思う繭さんが頭に浮かんだ。
「まゆさん・・」
奈々に手紙を渡すと、爽は朝の柔らかな日差しがまだ残る窓のほうへと視線を移した。窓辺にはほころびかけた桜の花が春の訪れを告げるように少し遠慮がちに顔をのぞかせていた。
「まゆさんの桜や・・」
あの日、渡良瀬繭は部室の窓際にあるいつものソファに座って桜を見ていた。軽音部員ではない彼女だったけど、いつも彼女がそこにいることはとても自然な光景だった。
誰に声をかけるわけでもない、逆に挨拶を返されるわけでもない、ただそこに渡良瀬繭がいるだけでみんなは安心していた。時折、思い出したように口を開く彼女にみんなが微笑んだ。それは軽音の日常には欠かせないものになりつつあった。
その日は午後の講義が終わって帰って来たときも彼女はまだそこにいた。
何か嫌な予感がした。
暮れなずむ夕日の中で朝方より幾分ほころびかけた桜の蕾をじっと見つめながら、誰に話しかけるでもなく彼女はその重い口を開いた。
(( ダメなんだよね、あのお金は。ふつうのお金じゃないのよ。
別にお金に名前が書いてあるわけじゃないわよ、でもだめなのよ、あのお金だけは。
わかる?ねえ、さやか。一本10円で売れる大根を多い日では2000本、少ない日でも500本、毎日毎日、朝5時に起きて日暮れまで、引っこ抜いて、水で洗って、段ボールに詰める。それを一日中繰り返すの。
休みなんてないわよ、お正月とお盆だけ、だから、いつ見ても母ちゃんの手はカサカサの真っ黒け。
でもね、父ちゃんはそんな母ちゃんの手が大好きだっていうのよ、あれは母ちゃんの勲章だっぺって。 そんなお金なのよ、あれは。母ちゃんと父ちゃんがそうやって私に作ってくれたお金なのよ、あの人が使えるお金じゃない、あんな人が使うお金じゃないのよ ))
それから数日後、渡良瀬繭は私たちの視界から消えた。
何日たっても、その窓際のソファの主は現れることはなかった。
今、そこにはあのセーターが置いてある。爽が繭からもらったレインボーカラーのスヌーピー。いつか彼女が帰ってくることを願って。
「さや姉、まゆさんを助けてあげないとダメだよ!!」
突然、ナーナが震える声でそう叫んだ。
「だって、まゆさん、助けてほしいって書いてあるじゃん、」
「ナーナ・・」
彼女の端正な顔がゆがむ、訴えるような眼は少し潤んでいるようにも見えた。
いつも、輪の中では口数の少ない聞き役に回ることの多い小田香ナーナ、みんなをいつも優しく見守るその顔は仄かな母性さえ感じさせた。
発言は少ない分、口を開いた時は必ずと言っていいほど的確な答えを返してくる。だれもが納得できる様な正義を語れる。そんな子だった。
「ちょっと貸して」
ナーナからひったくるようにして、薄紅色の便せんを爽は取り上げた。
分からなかった。あれほど理解していると思っていた繭さんの心が読めていなかったのか。
何度も何度も読み返す、便せんに残った小さなシミまでも食い入るように見つめた。読み返すうちに越後のまだ雪深い春の湿った空気さえ目の前に漂うのを感じた。そこに見えたのは彼女のわずかに残った心の絆、そして私達への切なる想いと願い。
繭さんがこの手紙で私に伝えたかった事、言おうとしても言えない事、切なくて狂おしいほどの何かおぼろげながらも分かったような気がした。
熱いものが突然込み上げてきて胸が張り裂けそうになった。
そうだそうなんだ。あのお金は取り返しは効かないお金なんだ。
働いてお金を貯めてまた戻ってくれば良いとか、
誰かにお金を貸してもらって東京での生活をふたたび始めれば良いとか、
そんな事では何も解決しない一歩も前へ進めない繭さんがそこに居て
だから自分ではどうしようもないその気持ちを埋める為に人生一度も神様になんて手を合わせたことの無い繭さんが毎日お百度を踏んで
泥だらけになりながら大根を引っこ抜いてる
今、越後妻有の地べたを這い回ってるんだ。
「そんな繭さんみたかないやろ。やっぱり、取り戻してくる。それしかない」
爽が唇を噛んで誰ともなくそう呟いて、その腰を上げた時、
ナーナが驚くような声を上げた。
「あっ、砂原璃子だ!!」
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