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消えていく人
アキスミ
「地下に吸い込まれていくらしいんだ」
隣を歩く兄さんが、口元を押さえて必死で笑いを堪えている。
言おうか言うまいか、迷いに迷ってやっと口にしたのに。
「笑わないでよ! 僕、聞いたんだ――」
僕の剣幕に兄さんが立ち止まった。薄暮が転がる石畳の道に、初夏の生ぬるい風がふわりと吹いた。
「……お前それ、他の誰かに言ったか?」
こちらを向いた兄さんの顔からすっと笑いが消え、僕は急に不安になる。
「いや……誰にも」
兄さんがこんな態度を取るなんて、やっぱり――
♢♢
僕たちの町で人が消え始めてから半年以上経つ。
最初は『失踪』と言われ、真面目に調査もされていた。
数ヶ月後には誰もが『消失』と呼ぶようになるけれど。
僕も他人事だったんだ。自分のクラスメイトが消えるまでは。
消えた彼とはそんなに親しかったわけではない。僕は今年受験して入学した高入生だったし、失踪した彼は内進生だったから、何となく距離を感じていた。
いや、理由はそれだけじゃない。彼自身が近寄りがたかったせいもある。
声をかけても無視されそうな気がしていた。それか「君なんかが僕と友だちになろうと思ってるの?」そう言って冷ややかに笑われそうな気がした。
彼は目立つことはしない。なのに気を抜くと目で追っていた。本人はもちろん周囲にも悟られないように、教室では気が休まることがなかった。
そんな僕だから、その朝彼がいないことには直ぐに気がついた。
体調が悪いのかな。まずはそう考えた。遅刻をしない彼が、この時間まで教室に現れないなんて。
ここ数日の彼は授業中でも、友だちと――その中に僕は入っていないけど――一緒にいる時も、辛そうにこめかみを押さえていることがあった。
何か深刻な病気だろうか、心配になった。色白で線の細い彼の横顔を思い出していた。あの肌に、黒のガウンが良く映えるんだ。
それを着て、朝の礼拝でパイプオルガンを弾く彼を見るのが、僕が学校に来る理由なのに……。
その時先生が入って来て、教壇にも向かわず、入口でこう言った。
「ツルバミが消失した」
♢♢
「アキスミ、どうした? 大丈夫か?」
兄さんが僕の両肩を強くつかんでいた。
「……ん? 大丈夫、ちょっと考え事をしてた」
大袈裟に思えるくらいの溜息をついて兄さんが言った。
「心配させるなよ。また、あの頭痛かと思ったぞ」
そうなんだ。三日前から風邪すら数えるほどしか引いたことのない僕が、激しい頭痛に悩まされるようになった。
今日、患者でごった返す病院に行き、待たされるにいいだけ待たされ、会計を済ませた頃には広い外来に患者は僕一人だった。
兄さんが迎えに来てくれるまでの間はとても不安だったんだ。
「さっきの『地下に吸い込まれる』って話だけど、それを病院のどこで聞いた? 誰が言ってた?」
「先生たちが……何人かで話してた。僕が隣の処置室にいることに気がついてないみたいだった。僕、検査の途中に眩暈がして、たまたまそこで休ませてもらっていたから」
兄さんに合わせて思わず僕も声を落として続ける。
「消失する人の共通点は兄さんも知っての通り、頭痛だよ。それで、消失した人がどこに行ったかというと――」
「地面の下か」
未だに疑わし気な兄さんの口調に「だから言っているじゃない」と今度は僕の方が溜息をついた。
でも、兄さんがこんな態度を取る理由も理解できるんだ。
だって――
「この世界のどこに地下があるって言うんだ?」
兄さんが険しい顔でそう言った。
そうなんだ、僕らは地下の空間というのものを、伝説でしか知らない。
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