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オブリビオン薬
「もう一人の自分……」
家で兄さんから聞いた話と合致する。
「ツルバミくん、実は俺もその『もう一人の自分』の件を耳にしたことがあるんだ。詳しく聞かせてくれないかな」
ツルバミくんがはっと顔を上げた。
「僕以外にも帰還者がいるということですか?」
少し前のめりにすらなっている。
「いや、実は『もう一人の自分』のことを話していた人がどこの誰だかわからないんだよ。そういう音声を患者情報ファイルで聞いて、直ぐに詳しく調べようとしたのに、一分も経たないうちにファイルごと削除されてしまったんだ。聞き間違えじゃないかと思ったくらいだ」
少しの沈黙が流れる。店内は無伴奏の聖歌のBGMだけが流れている。
その歌の中で見るツルバミくんの横顔が天使のようで思わず手を伸ばしかけた、その時だった。
「――オブリビオン薬はみつけましたか?」
一人で店をまわしていた店員さんがそこに立っていた。
客が一人もいなくて秘密の話にはうってつけだと思っていたのに。
「オブリビオン薬?」
兄さんが怪訝な顔で尋ねる。
中年の店員さんの目が少し潤んでいるようだが、店の照明のせいだろうか。
「それが、消失を止める鍵なんです」
「やめてください――。僕は知らない。僕はオブリビオン薬なんて持ってない。どこにあるかも知らない」
ツルバミくんが明らかに動揺している。
何だか今夜は情報量が多すぎる――。
「それは薬なんですか? 頭痛の特効薬か何かですか? どこの製薬会社が出しているものですか? 海外から違法に輸入されているものなら問題だ」
兄さんが問い詰める。衛生局に勤める兄さんの耳にも届いていない新薬が見つかったということか。
「『もう一人の自分の殺される』、そう言っていた人間をわたしも知っています」
店員さんは答えの代わりにそう言った。
「え?」
僕たち三人、それぞれの声で、同じ一文字を発した。
「誰なんですか?」
人見知りな僕が兄さんより先に質問していた。
「わたしが匿っていた、地下からきた人間です」
このおじさん、一体何を言ってるんだ。
「数日前の、今ぐらいの時間です。白い服を着た若い男が、この店に入ってきました。白い服を着ていること自体異様ですが、酷く怯えた様子で、可哀想になって。お金も持ってませんでしたが飲み物を出して、話を聞いてやることにしました。どうせ暇をしていましたから」
そこでおじさんが一度深く息をする。チラリと見たツルバミくんの表情が動揺から恐怖に変わっていた。
「大丈夫?」
小声で声をかけたが無視された。わざとではないと分かっていても傷つく。
おじさんが続ける。
「彼は最初、何を聞いても、うわごとのように二つの事を繰り返していました。『この世界で自分に会ったら殺される』と『オブリビオン薬が必要だ』です。興奮が治まってから聞いたところによると、このオブリビオン薬があれば彼も地下の世界に帰ることができるし、地上で起きている消失事件も解決すると言うのです」
「『オブリビオン』って《忘却》とかって意味だろ? まさか頭痛自体を忘れさせるとか、自分が誰かを忘れさせるとか、もしくは周囲の人に呑ませて消えた人の記憶を無くすとか、そんなんじゃないですよね?」
兄さんがおじさんの話が本当か嘘か決めかねている様子で尋ねる。
おじさんが急ににやりと笑った。
「そんなありきたりの展開なら、全然面白くありませんよ」
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