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僕の好きな花
植物館は喫茶店のある坂を下って、さらに十五分ほど歩いたところにある。本当は兄さんの車で行きたいところだったが、店主さんが「駐車場は閉まっていますし、あの当たりは路駐禁止ですから」と言ったので歩いて行くことにした。
「駐車場も閉まっているかも知れないけど、建物の入り口も閉まっているだろ。古い施設だからどうにかして忍び込んでも、さすがに防犯カメラとか警備員の巡回とかはある。どうするつもりだ?」
兄さんが歩きながら店主さんに聞いた。
今気がついたけど、兄さんはかなり年上の店主さんにすでに敬語を使うのをやめている。
普段は礼儀を重んじる兄さんだけど、店主さんのことを疑っているんだ。
さっきの店が行きつけなら、店主さんとは親しくはなかったとしても顔見知りではないのか。
店主さんの様子が普段と違うとか……? もしかしてこの人が既に地下人と入れ替わっているとしたらどうだ。
当の店主さんは演技なのか何なのか、わざとらしい程に飄々としている。
「あなたの言う通り、あそこは建物の入口まで行くのは簡単なんですよ。ただ、当然鍵はかかっている。それは白服の彼が中から開けてくれるので大丈夫。監視カメラは……そうですね、確かにまずいですが、それも彼がどうにかしてるでしょう」
「……」
全然どうにかなる気がしない。こんなのバレたら僕とツルバミくんは停学。兄さんなんて公務員なんだ。停職や減給は確実だ。
「その白服の男はどうやって中に入ったんだ」
生ぬるい夜風が吹く、人通りの少ない大通りを歩きながら兄さんが聞いた。まだ二十時を少し過ぎた頃なのに、植物館に向かうこの道は寂しい。
「昼間にわたしの貸してやった黒い服を着て入館して、隠れていたんです。わたしはどうせ、店を閉めたら様子を見に行くつもりでしたから、待っていてくれると思います」
店主さんは夜のピクニックにでも行くような陽気さだ。
「さっきは会えるかどうかわからないと言ってなかったか?」
「あなた達が信用できるかわかりませんから、用心ですよ」
「今は信用してるっていうのか――」
会話を交わし続ける兄さんと店主さんの背中を見て歩いていた。
やせ型で背の高い兄さん、その兄さんと同じくらいの背丈だけど、がっしりした体格の店主さん。二人とも大人で、僕の何年も先を生きている。
でも――隣を歩くツルバミくんは違う。
触れられることの出来る天使。
僕は心の中でそう呼んでいる。
僕のツルバミくんに対する思いは、友情でも憧れでも、ましてや恋愛でもない。
――信仰だ。
だから、今も並んで歩いているのに何も話せないんだ。
「アキくんは植物館に行ったこと、ある?」
突然、ツルバミくんの声が暑いのか涼しいのかどっちつかずの気怠い空気を揺らした。
「あ、え? あの、うん。何度もあるよ。ツルバミくんは?」
「本当? 僕も。僕、植物が好きなんだ。学校では言ったことがないけど。アキくんはどの花が好き?」
さっきまで影を引きずっていたツルバミくんの声が華やいだ。それこそ本当に夜に花が咲いたように。僕の心にも花が咲いた。ツルバミくんと共有するものがあること、しかもそれは今のところ僕たちだけのものだ。
「ラフレシアが好きだよ。残念ながら植物館にも標本しかないけど」
「赤くて大きな花だよね? 人を食べそうなおどろおどろしい見た目の。酷い匂いがするっていう。アキくんは面白いな」
ツルバミくんの白い顔が、生ぬるい夜に溶けてしまいそうに笑っていた。
胸が苦しくなって、
「ツルバミくんは? どんな花が好きなの?」
聞き返しながら呼吸を整える。
「僕は、そうだな。ヒスイカズラなんかが好きだよ」
「あのエメラルドグリーンの花? ツルバミくんにぴったりだ!」
前を歩く二人が僕の大きな声に振り返る。
「ごめん、何でもない」
隣でツルバミくんが微笑んでいた。その背景にヒスイカズラを想像した。
一面しな垂れる翡翠色の火の粉たち。花言葉はたしか――
「『わたしを忘れないで』」
ツルバミくんが静かに言った。
「ヒスイカズラの花言葉だよ」
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