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退屈だ。
私は玄関前の廊下に寝っ転がって、意味もなく天井を見上げていた。素っ気ないフローリングの冷たさが心地良かった。
頭の方向に両親が寝室として使っている和室があった。私は仰向けに寝転んだまま、膝を曲げたり伸ばしたりしながら和室まで進んで行った。和室に侵入すると、い草の柔らかな涼やかさが背中に伝わった。
ふうー。
私はゆっくりと息を吐いた。
今日は日曜日。今は午前十一時。
三十分ほど前に起床して、二階の部屋から階下へ降りてくると、すでに家には誰もいなかった。
食卓の上に置かれたメモには母の字で、「パチンコに行ってきます。お父さんは山登りに行ってます」と書いてあった。
お昼ごはんは特に何も用意されていない。高校三年生の姉は、専門学校への入学が決まっていたので、毎週土日はバイトで家にいない。
築十六年。私と同い年の二階建ての4LDLKの家に一人きり。だだっ広い玄関と、無駄に広々とした廊下。埋められていない空間が多すぎて、一人でいるとなんだか心細くなる。
私は和室の日当たりの良い場所へずりずりと移動しながらひとしきり日向ぼっこを楽しんだ。
ほんと静か。静寂の中でわずかな空気の振動すら耳に届く。まるで、遠くから何かが私に近づいてくるような気がする。
日向ぼっこにも飽きて、和室をごろごろと転がっていると、頭の角に何かがぶつかった。
「ん?」
寝ころんだまま、手で頭の上を探ると、厚みのある本があった。
「なにこれ?」
黒い表紙にピンクの大きなアルファベットの文字で「JURI HER THOUGHTS」と書かれていた。帯の説明を見るとどうやら恋愛小説らしい。
「へえ。おかん、こんなぶ厚い本読めるんだ。しかも恋愛小説って…」
おかんと恋愛小説、しかもこんなにぶ厚い小説を読んでいるイメージが結びつかなかった。私は意外に思いながら、多少の気まずさを持ったままページを開いた。
ページの冒頭から性愛の描写。おかんの顔がちらつき、なんとも言えない居心地の悪さを感じたけれど、すべての表現が文学的で美しかったので途中から気にならなくった。
今まで読んできた本とはまるで違う大人の世界に私はすっかり浸りきっていた。男と女の刺激的な会話にどきどきした。
ほんの一瞬の行動や情景がスローモーションのようにくっきりと見える瞬間が丁寧に描写されていて、私は作者の圧倒的な文章力と表現力に夢中になった。あるいは作者が誰かを愛したときの、フィルターがかかった世界がこのような文章を書かせているのだとしたら、彼女の恋愛はなんという財産なのだろうと少し羨ましい気持ちになった。
主人公のジュリは魅力的で自立していて、自分なりの哲学を持っていた。そして様々な恋愛を楽しみ、次々と男たちと寝ていた。あまりに躊躇なく男と寝るものだから、経験のない私は驚くばかりだった。
ジュリの自由奔放さは時にとても危うい。ある場面では女友達の恋人とうっかり寝てしまう。
本当にうっかりと。
あのときのジュリはきっと思考すらしていなくて少し動物的ですらあった。
「そんなことしたらだめだよ。よく考えて!」
私はページをめくる手が止まるほど、次に何が起こるのか心配だった。
だけどジュリは、その後も特に気にする様子もなく普通に振る舞っていた。本当に何事もなかったかのように。
彼女は感覚だけで生きている。自分の本能に忠実すぎて、周りの人を巻き込んだり傷つけたりする。それと同じくらい自ら面倒ごとに巻き込まれにいったり、傷つけられたりもする。
でも、彼女は恨み言も言わないし、過ぎたことを悔やんだりもしない。まるで失敗にしか見えない過ちを優しく愛おしんでいるようにすら見えた。
一見、男と女の色恋沙汰のお話に見えるけれど、ベースにはジュリという女性の揺るがなさがあった。だから、不思議と不快な気持ちにはならなかった。
どれだけ男と寝ても彼女の本質は変わらない。
「私は私のために生きているの」
彼女のその言葉が私を安堵させ勇気づけた。
気が付くと、西側の窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。何時間読んでいたのだろう。時計を見ると、四時を少し過ぎていた。
急激に空腹を感じ、冷蔵庫を漁っていると、玄関のドアが開く音がした。
「やだ、あんた、まだパジャマじゃない。もしかして今まで寝てたの?」
背中に母のぎゃんぎゃんした声が投げつけられる。
私は小説の主人公になったような気持ちで振り返り、澄ました顔で母を無言で見つめた。
ねえ、私はあなたがパチンコ屋でギャンブルを楽しんでいる数時間で、大人の恋愛を目の当たりにする経験をしたのよ。
私はうんと魅力的なジュリの親友にでもなったように、どこか勝ち誇った気持ちで母を見つめていると、
「何よ。気持ち悪いわね、じっと見つめて。寝すぎておかしくなっちゃったの?」
母は顔をしかめながらポケットからチョコを取り出した。
「あげるわ」
そう言った母の指先には見たこともないきれいなネイルが施されていた。海を思わせるブルーのグラデーションが爪の上でさざ波のように光を揺らしている。
そう言えば母の手は手入れが行き届いていてとてもきれいだ。私は母の中に小さなジュリを見つけたようで心がざわめいたが、粗雑に結ばれた髪を見て、
「きっと気のせいだ」と言い聞かせ、それきり母の中にジュリを探すのは止めた。
それからずいぶん長いときが経った。ジュリのように自由奔放に恋愛を楽しんでいた時期もあった。性に積極的に寛容になったときもあった。
そしていつしかそのステージも終わり、今は子どものレッスンバッグを作ったりしているのだから人生って面白いものだ。
情熱的な恋愛に我を忘れるのと同じくらい、子どもの世話に追われ、時には髪を振り乱し育児と向き合う自分もまた愛しいではないか。
こんな日常もまたどこか小説的である気がするのだ。どんな日常でも私はいつでも物語の主人公のような気持ちで生きている。例え、悲しみに暮れているときも、平凡で何もないような日々でも。
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