古書店 縁堂

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 その古書店は大通りから一本裏道に入った、古い雑居ビルと昭和三十年代の趣のある家屋の間にあった。店主は七十代、白髪混じりの髪を七三になでつけて、冬は手入れのよい赤銅色のセーターを着こんで奥の椅子に座っている。  間口の狭い店内は奧に長く、書棚の設えられた両壁は、古書で埋まっていて、中にはいるとその古書特融の甘く少しほこりっぽい匂いで酩酊感を覚えるほどだ。手入れのよい古書にだけ出せる特有のにおいがある。それは僕にとっては祖父を思い起こさせる安心する匂いだ。  祖父が亡くなったとき、祖母と母は僕に内緒で祖父の蔵書を全て売り払ってしまった。祖父と、そして祖父の愛する本が大好きだった僕は泣き叫んで暴れた。あまりの暴れように見かねた祖母は、祖父の本の引き取り先を教えてくれた。それがここ、縁(えにし)堂だったのだ。  祖父が亡くなったとき小学生だった僕は、もちろん祖父の本を買い戻すなんてことはできるはずもなく、時折おこつがいを握りしめて百円の棚から気に入った本を買うくらいで、ほとんどの時間は店の隅にある椅子に座って立ち読みしていた。僕の事情を知ってか知らずか、店主はそんな僕を追い出すこともなく店に置いてくれて、僕はここで育ったみたいなものだ。祖父と蔵書を失った僕は、その代わり無口だが博識で優しい店主のいる、安心できる居場所を見つけたのだった。  いつのまにか僕は高校生になっていて、ときおりその古書店で手伝いをするようになっていた。その日は貴重な古書にカバーをつける仕事を店の奥でしていたのだが、その中に昭和五年に出版された薄い本が入っていた。単行本より小さく、文庫本より大きい。そして妙に縦長の、あきらかなに一般的な製本ではない。表紙は緑と赤の縞のある黄色い布張りでところどころ小さなシミがあるが、比較的状態はいい。本自体は薄いが、紙がぺらぺらに薄いため、それなりにページ数はありそうである。  表にはなんの記載もなく、背表紙には箔押しで「青春の窓辺」と書かれている。出版社などの印刷はなく、もしかしたら自費出版されたものかもしれない。ページを繰っていると、一番最後に著者のサインらしきものがあるが、なんと書いてあるかわからない。もう一度最初に戻って著者名を見ると、西田蝸牛とある。僕と同じ苗字であるが、聞いたことはない。すかさずスマホで検索してみるが、名のある作家というわけではなさそうだ。  手にしっくりと馴染む手触りと大きさのためか、僕はそれが気になって店にいる店主に声をかけた。 「おじさん、これ、いくら?」 「あ? いくらにする?」  店主は僕の手元を見てそう言った。今まで本の値付けを任されたことはない。 「お前が決めていいよ」 「やだよ」 「決めなさい」  強い言い方ではなかったが、店主は有無を言わさないというように話を切って向こうを見てしまった。 「読んでから決めていい?」  あきらめて大声でそういうと、店主のいいぞーという返事が聞こえた。  夜自室でもう一度例の本を広げた。古く甘い匂いがふわりと漂った。どこかで大事にしまわれてきた匂いである。  内容に関して言えば、すごく控えめにいって、あまり抑揚のない、文章も平凡な恋愛小説だった。そして正直に言えば、くそつまらなかった。主人公はちょっとストーカー気質だし、ヒロインもあまりにもわがままだ。ただ気になったのが、そこに出てくる川などの名前や地名から察するに、僕の住む地域を舞台にしているらしい。もしかしたら著者自らの体験を書いたものかもしれない。だとしたらくそはずかしい趣味である。  僕は次の日の学校終わりにその本を持ってそこに書かれている場所を歩いて辿ってみた。マニアックな聖地巡礼である。主人公の達夫が好意を寄せる女性は、駅前の商店街の和菓子屋の一人娘の清子で、歳は十六歳。高等女学校に通っており、旧姓中学に通っていた達夫は家の使いで和菓子屋に来て一目ぼれをする。  その清子という女性の実家である和菓子屋と思われる大福屋という店が商店街にある。祖母がときおりここの豆大福を買ってきて、僕も食べたことがある。僕はなんとなくその和菓子屋に入って、家へのみやげにと豆大福を四つ買った。店にいたのは四十代から五十代くらいの女性である。 「あの、つかぬことをお聞きしますが」  普段の僕ならそんなことはしなかったろう。だが、生まれ持ったオタク気質からか、店員のおばさんの柔和な雰囲気のせいか、気がつくと、ご家族に清子さんという方はいますか、と聞いていた。おばさんは少し驚いた表情をしたあと、祖母が清子ですが、と答えてくれた。 「おばあさんが?」 「えぇ、もちろんもう亡くなってしまっているけれど、知ってらっしゃるの?」  そう聞かれて僕はあたふたと言い訳を考えたが、いい案も浮かばず、手提げから例の本を取り出した。 「この本を偶然手にして、そこにここの和菓子屋の清子さんという方が書かれていたので、それで」 「あら、そんな本が? 古い本ね」  おばさんは興味深そうに僕の手元をのぞき込んだ。そして僕はあることを思いついて聞いた。 「もしかして、その、おじいさんのお名前は達夫ではないですか?」 「たつお? いいえー、耕三よ」  僕はなんだかがっかりとしてしまって、少し話をして店をあとにした。達夫と清子は結ばれなかったらしい。それと同時に清子がいたということは作り話ではなく事実なのだと妙に感動してしまった。ということは達夫も、もう亡くなってはいるだろうが、実在の人物なのだ。清子さんが明治三十七年生まれとのことだから、達夫もそれくらいの生まれだろう。僕は本格的に達夫の足跡をたどることをなぜか決心してしまった。    調べると、当時達夫の通っていて学校は、僕が今通っている高校の前身の学校であった。担任に相談すると、学校に保管されている昔の卒業文集を見せてもらえることになった。清子さんと同じ歳だとすると大正十一年卒業となる。その歳の卒業アルバムをそっとめくる。どんぴしゃである。三組、西田達夫。なんというか、さるっぽいと言うか、人のことは言えないが、お世辞にもてそうな顔ではない。周囲と比べておそらく背もあまり高い方ではない。もしかしてと思って、耕三という人も探してみたが、同じアルバムの中には見つけることはできなかった。  今と違ってばっちりと住所も乗っている。地図アプリでその住所を検索してみると駅の向こう側、学校から歩いて二、三十分ほどの場所である。もちろん僕は学校帰りそこに行ってみることにした。ほんと、テストも近いというのに、なにしてんだろ、俺。  それはさておき、自転車で到着したそこは、駅裏の新興住宅地で、新しい家ばかりで大正時のおもかげを見ることのできるものはない。だいたい達夫の家があったと思われる場所にはよく見る分譲住宅が立っていて、家の前にいると家から二歳くらいの子供を抱っこした女性が出てきて、僕は慌てて自転車をこぎ出した。  自転車で走りながら、達夫を追う次の手を考える。達夫は本の中で、なにか悩み事があると河原に行って石を投げながら考え事をする。そして清子への想いを川に向かって叫ぶのだ。寒いやつである。別にその河原に行ってどうなるものでもないが、何となくそこに向かって自転車をこぐ。  河川敷に自転車を止め、川の近くまで歩いていく。暗くなるまでまだ少し時間のあるこの時間帯は、犬の散歩やジョギングをする人でにぎわっている。当時も人はたくさんいただろう。達夫の叫びも普通に聞かれていたはずだ。達夫。お前ってやつは。俺にはできないぜ。  手持無沙汰に川に沿って歩いてみる。自称では勉強は学年で二番。その代わり足の速さは一番だったとある。怪しい記述である。それにしても男というものは、いつの時代も足の速さにこだわるものである。馬鹿な生き物だ。本のあるシーンでは達夫は清子を河原に散歩に誘って、手を握ろうとして清子に逃げられる。しかし達夫は妙にポジティブで、逃げたのは自分を意識している証拠だとして、それから毎日学校が終わるころに清子を迎えにいく。清子はそれに根負けして一緒に映画に行くことを了承するのだが、映画館の中で席を一つ離して座るように達夫に要求する。達夫は清子のその奥ゆかしさを称賛する。  達夫、お前ってやつは、ほとほとポジティブだな。めっちゃ脈ないやん。  暗くなってきたために再び自転車を走らせて家に帰った。  家に戻ると祖母が家の中をばたばたと歩きまわっていた。もうすぐ八十になうとする祖母はまだまだ元気である。そして八十かぁ、と僕は思った。ということは、ばあちゃんの両親はだいたい達夫と同じ世代の人間である。祖母は生まれも育ちのこのあたりの人間だから、もしかしたら達夫を知っているかもしれない。 「ばあちゃん」 「なに。今明日の旅行の準備で忙しいの」 「また旅行行くの?」 「今度は伊勢」 「お元気なことで」  と、聞き忘れそうになっていたことを祖母に聞く。 「そういえばさ、西田達夫って人知ってる?」 「え? 何言ってるの。あんたのひいじいさんでしょ」 「え? は? まじで? ひいじいさん、達夫って言うの?」 「なに。今知ったの? これだからこれだから。それにしても何よ。急に父さんの話なんて。枕元にでも立った?」  僕は驚いてしばらく言葉を返せなかったが、あきれ顔の祖母に首を振った。 「いやぁ、そういうわけでもないけどさぁ」 「なんでもいいけど。仏間に父さんの写真あるでしょ」  そう言われて僕は思わず仏間に走った。毎日見ている仏間の写真。その中に探し求めていた西田達夫がいるなんて、なんて盲点だろう。まぁ、そんなに探し求めていたわけじゃないけど。  仏間の壁に飾られたいくつかの写真。その中に西田達夫がいた。言われてみれば、あの猿っぽい少年が歳老いたらこうなるだろうという顔である。こういう写真は普通みなしかめっ面で映っているものだが、なぜか達夫は妙ににやけた顔で映っていた。歯が一本抜けている。 「達夫、お前ってやつは」  僕は祖母に聞かれないように、小さな声でつぶやいた。  次の日、やっと僕は本の値段が決まったことを店主に告げた。店主は重々しい表情でうなづいた。 「で? 鑑定結果は?」  僕は黙ってポケットから百円玉を出してカウンターに置いた。 「百円。そして、これは僕が買うよ」  店主はおもしろそうに笑った。 「まぁ、妥当だな」 「これが僕の最初の鑑定かな。いつか世界一の古書店の店主になるよ」 「そうか。じゃあ、店開いたらここの本を全部、餞別にやるよ。それまではなんとか店を続けていかないとなぁ。早くしよろ。もう生い先短いんだから」 「善処するよ」  僕はパーカーのポケットに本をねじ込んだ。          
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