1人が本棚に入れています
本棚に追加
***
その時は、唐突に訪れた。
「お父さん、お母さん。……話があります」
天使が十歳になってすぐのことである。
彼女は私と夫を前にして、深々と頭を下げてきたのだった。
「私の名前を、変えさせてください。家庭裁判所に申請したら、名前が変えられるって聞いたの」
「……え、天使」
「お願いします」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、ねえ!」
いつか、それを言い出すのではないかと危惧はしていたのである。娘が幼稚園の時と小一の時でいじめに遭っていたことは知っているし、その原因が名前をからかわれたことにあるかもしれないというのも把握はしていたからだ。
しかし、それはあくまで人の大切な名前を揶揄うような相手が悪いというだけのこと。
そんな奴らの言うことを鵜呑みにして、自分の大事な名前を嫌うなんて間違っている。きっと、彼女もそれをわかってくれるはずだと信じていたのに。
「天使。あなたの名前がどうしてつけられたか、その話は何度もしたはずよ。私達にとって唯一無二のエンジェル。最高の天使として、幸せになって欲しいと願ってつけた愛情のこもった名前なの。それを変えたいなんて、酷いこと言わないで」
怒りはある。でも、それ以上に焦りと悲しみが強い。
「あなたの名前についてとやかく言う人がいるのは知っています。でも、人の名前で悪口を言うような人達の言うことなんか、気にしなくていいの。そんな人達のことなんか忘れちゃえばいいのよ。大事なのは、あなたが愛されているということで、誇りを持って生きていくことなんだから、ね」
「……お母さん」
娘は悲しそうに眉をひそめて、言った。
「私は、この名前に、誇りなんか持てない。お母さんとお父さんが、私のことを想ってつけてくれた名前なのはわかる。わかるけど、でも……」
ぎゅ、とテーブルの上で、天使は拳を握りしめた。
「でも、これは、私の名前なの。私が一生背負っていく名前なの。どうして、私自身に選ぶ権利がないの?」
「そ、それは……」
名前は、親が子供に与えるものだから、とか。
親が心をこめてつけるものだから、とか。
いろいろと理屈は思い浮かんだが、それを上手に説明できる自信がなかった。彼女が求めている言葉がそれではないことは明らかだったから。
確かに、法的手続きを得れば名前は変えられる。だけど。
「天使様のことは好き。でも、私は天使じゃない。人間なの。……綺麗で、優しくて、素敵で……そういうイメージを名前のせいで押し付けられて。少しでも“そう”じゃない要素があると指をさして笑われる。確かに、人の名前でどうこう言ってくるようなやつは、嫌な奴だと思う。でも……お母さんならできるの?どうでもいい奴らだからって、嫌いな奴らだからって、たくさんの人に嫌なことを何年も何年も言われ続けて我慢できるの?それが……自分が本当に誇りを持ってるものならまだしも、私自身も納得してないことのせいなのに?」
「納得してないって……」
最初のコメントを投稿しよう!