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 早朝から七時ごろまでの時間の流れ方は、ばあちゃんが生きている時から変わらない気がする。  だから、この時間が好きだ。    息を白くあげながら庭に出て雨戸を開き、家の中に戻って熱いコーヒーを飲む。テレビのニュースを眺め、世の中をぼんやりと知る。  時間が七時に切り替わった瞬間から、あ、ばあちゃんいないんだった、と、現実に戻る。  いつも、きっかり七時にばあちゃんは布団をあげて台所に出てくる。そして、お茶を飲むのだから。  たまにことこと音がするのは、古い家特有の家鳴りである。今はその気持ちの悪い音ですら、偽りの救いとなる。  (今までの全部がただの悪夢で、もう少ししたら奥の和室からばあちゃんが台所に入って来るのでは)    コーヒーを飲みながら部屋の中を眺める。掃除しなくちゃな、と思う。このところ、体を動かすのが億劫だ。仕事以外の時は、いつまでも椅子に座っていたくなる。  ぱちん。  小さい音が聞こえた。  背後の流しからだ。たぶん、洗い桶の中に張った水が泡を立てたのだろう。  毎日のように明け方に見る、あの水の中の夢。  夢はなにかを告げる場合もあるというけれど、一体あれは、なにを意味する夢なのだろう。  その時、きいぱたんと扉が開いて閉まる気配がして、どきりと顔をあげた。当然、誰もいなかったが、かわりにテレビのニュースの女子アナウンサーの顔が、妙に年老いて、しわくちゃになったのを、わたしは見た。  「今年は積雪が少なかったのですが、春の雪溶け水の勢いは強いですね。水辺の事故には十分にお気をつけください」  と、アナウンサーは言った。  水。雪溶け水。その言葉に、わたしは妙に反応した。  「お水の中に、みんな溶けているんだよ。お水には命が溶けているんだよ」  ばあちゃんは、そう言ったことがあった。それは、なんの時だったか。  ああそうか。    ざああああ。  家の前を流れるのは、深い用水。  山から流れる川から水を引いている。  この町は水の町。  町のどこにいても、水の流れが常に聞こえる。  水難事故が多く、お年寄りが用水で溺死したニュースを聞いたわたしが「お水怖い」と言ったことがあった。その時ばあちゃんは、水は良いものだと教えてくれたのだ。  水には、みんな溶けている。  「今日の星占い、いってみよーう」  一瞬だけ現れたばあちゃんの幽霊は画面から消滅し、テレビはカラフルで楽し気な現実を装っていた。  (わたしは、お水に溶けてしまいたいのかな)  一度、気になると、耳は丹念に水の音を拾うようになる。  ざあざあと流れる用水の音を聞いているうちに、「仕事に行く前に、さっと掃除機でもかけよっかな」と、重たい腰を上げる気になった。
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