妻が薦めたその一冊(改訂版)

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 先月、妻が他界した。膵臓がんだった。膵臓がんというのは初期時症状がほとんどなく、早期発見が困難な癌なのだそうだ。実際、子宮頸がん、乳がん、胃がん、大腸がん、肺がんの検査は健康診断で受けることができるが、膵臓がんはそれを目的として内科なり消化器内科を受診しなければ見つけることは困難なのだと、のちに医者に言われて知ったのだった。実際、妻の病はかなり進行した状態で見つかった。背中の痛みを感じた頃にはもう手遅れだった。  妻は本の虫だった。常に、どこへ行くにもハンドバッグに文庫本を忍ばせていたし、家ではいつでも本を片手に私の話を聞いているような人だった。お風呂でもそれは同じで、彼女の入浴タイムは一時間を超えることもざらだった。浴槽で本を読むなど、本が湿ってよれよれになってしまうと思ったのだが、彼女はそれを気に留めることはなかった。  昔は違った。とても活発で、学生時代からの友人とテニスをしたり、クライミングをしてみたり、時にはマラソン大会に出てみたりと運動することに勤しんでいた。    それが、不慮の事故に遭って左膝を痛めてしまってから見事に変わってしまったのだった。彼女は見事に家を出ない人となってしまった。それもそうだ。完治はしない、と言われてしまったのだから。それでも、日常生活に戻れただけ有り難いと思わなければならない。切断しなければいけないかもしれないと言われていたのだから。  家を出なくなった彼女を見ているのは、はじめはとても痛々しかったのだけれど、彼女は小説に出会った。物語との、初めてのちゃんとした出会いだったのだそうだ。  彼女の物語との出会いは、お見舞いに来てくれた友人の差し入れの一つだった。その友人曰く、「私はこの本で、読書の楽しさを知ったのよ」ということだった。手渡されたそれを妻は半信半疑で受け取ったが、入院中することもなく貪る惰眠もストレスになってきた頃、漸く手に取ってみたのだという。それからは見事に本の世界にどっぷり浸かってしまった。友人からの一冊は、見事に妻にも響いたということだろう。  そんな妻の本の虫生活が始まったのが、四十を超えた頃だった。亡くなったのが六十六で、自分の母の生きた年齢を超すことを目標に生きていた彼女は、「充分生きた」と言っていた。もう緩和ケアくらいしかできることがなかった妻の病状を私はひとり嘆いたものだったが、彼女はとても清々しい顔でそう言ったのだ。妻の母親が亡くなったのは六十四の歳だった。心臓病でぽっくりだった。苦しまずに済んだだけ、お義母さんの方が幸せだったんじゃないかと私は思っている。そんなことを言ったら、罰が当たってしまうかもしれないが。今の時代、六十代で亡くなるなんて早すぎると思ったのだが、彼女の痩せ細った肢体を見ながら聞いた「充分生きた」は、私には重たすぎるほどの響きを持っていた。  妻に先立たれた男はどうにもならないのだと聞いたことはあったが、本当にその通りだった。  定年退職をして、月の三分の一くらいを警備員という職に就いて過ごしていたのだが、その仕事も上の空になり、この間はついにあまりに気の抜けた私をさすがに見過ごせないと休暇を言い渡された始末だった。妻を喪ったことは職場にももちろん話していたので同情の声の方がはるかに多く、私はその優しさに甘えることにした。  まさか、妻の保険金を私が受け取ることになるとは思っていなかった。私の方がすこしだが歳が上で、男の方が平均寿命は短く、まず私の方が先に逝くものとばかり思っていたのに。 「一体、いくらもらったんだろうな」  私のいない事務所でそんな風に保険金の話をする職員たちの言葉を聞いてしまって、私は喪失感に浸るだけでなく空虚感を持つようになってしまったのだった。  金で買える幸せは、多いようで少ないものだと感じる日々だった。  毎日欠かさず妻が淹れてくれる珈琲をソファに並んで一緒に飲む時間は、今やなにものにも代えられぬものだったと後悔している。もっと、大切に過ごすべきだったのだ。その時間だけは、妻は本を持たずに私と居てくれたのに。 「あなたはいつも朝のこの時間は新聞を読んでいるのね」  そんな妻の言葉を、私は疑問とも不満ともつかない気持ちで聞くしかなかった。私からしたら「お前はいつも本を読んでいるな」というのと同義だったのだから。
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