妻が薦めたその一冊(改訂版)

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 誰かに頼り切るということ――それは私が一番嫌っていたことだった。そういう意味では、ついぞ妻に頼ることはできなかった。私は人に頼ることができない。甘えや弱みを人に見せることができないのだ。これはプライドなのだろうかと考えるが、分からない。自分のことなのに分からないのだ。男としての立場がどうとかそういうことを考えていたつもりはなかったが、もしかしたら思春期の子供のような照れ隠しだったのかもしれない。分からないけれど、私は妻に弱みを見せることをずっとできないで生きてきてしまった。  ああ、だから妻は私に対して片手間に返事をするようになったのかもしれない。長年連れ添ったにもかかわらず、弱みの一つも見せない私に寂しさを感じて、いつしかそれも麻痺したように本の世界にのめり込んだのかもしれない。妻は寂しかったのだろうか。悲しかったのだろうか。もう分らなくなってしまった。なにもかも。すべて分かっていたつもりの妻を亡くして、なにかが分かるならまだしも、分からなくなってしまったのだ。こんなことってあるだろうか。  なんでも知っていると思うことは怖いことだと思った。これは、圧倒的な恐怖だ。勝手に知ったつもりになって、それを失ってしまうという恐怖と絶望。私は絶望の淵に追いやられていた。本当に知った気になっていたのだ。食べ物の好み、服の好み、喋り方の癖に彼女の匂いまで。その絶望の振り払い方がまるで思いつかない。私はまた途方に暮れてしまった。  それからどれだけ考え込んでいただろう。気付けば外は薄暗くなり、私はふと先ほど目についた本を手に取った。――そうだ、本を読もう。そう思い付いたのは、妻を思い出すためではなく振り払うためだった。妻を思い遣ることのできなかった自分から、目を逸らすために。  私は手に取った本の頁をゆっくりゆっくりと捲っていった。本を読むことから随分と離れていたせいか、何度も寝そうになりながら――ときには本当に寝てしまいながら――読み進めていった。本を読むのにはこんなに根気がいるものだったかと驚くほどだった。  それは冒険小説だった。男は冒険とロマンが好きだ。いや、冒険には男のロマンが詰まっている気さえする。昔は冒険小説も読んでいたことを思い出す。考えせられるものが好きで、SFのショートショートなどもよく読んでいた。星新一には本当にお世話になったものだ。私は妻にそういったことを話したことがあっただろうかと考えてみるが、思い出せるほどの記憶はなかった。妻が薦めてきたのも、こういうものなら男の私でも入りやすいと思ったからなのだろうな、とどこかで感じ始めていた。  そこでふと、”星の王子さま”という小説を思い出していた。飛行士と作家をしていたという著者。フランスの小説。  昔、私はあの小説はただの王子の宇宙旅行の話とばかり思っていた。様々な星で出会う一風変わった人間たちや、王子がというその奇妙な終わり方の意味がすこしも分からなかったのだ。なにを伝えたいのか分からない、と投げ出しそうになりながら読んでいたことを覚えている。本当なら創造力が豊かなはずの幼少期に、すこしも創造力など持ち合わせてなかったのだと妻に指摘されたことがあった。言い回しはもっと柔らかいものだったが、そういうことだったのだろう。彼女は学生時代、夏休みの課題図書で読んだと言っていた。 「あなたは、もうすこし王子さまの気持ちに寄り添うべきだわ」  妻はたしかにそう言っていた。 「あの話のどこに、寄り添えるところがあったんだ?」  そんな言葉で私は彼女を否定した。妻には頭が上がらないな、と今になって感じている。もっと、気持ちに寄り添うべきだったのだ。 「子供ながらに読んだけれど、あの王子さまはちゃんと学んでいくのよ。本当に大切なことがなんであるかを」  彼女は真剣にそう話していた。本当に大切なものとはなんなのかを、でも彼女は教えてはくれなかった。だから私も聞かなかった。そういうところなのだろう、私の良くないところは。女性の方が感受性が豊かなのかもしれないなと思ったが今や多様性の時代だ。単に私の感受性が乏しかっただけなのだろう。多様性だなんて考えるようになっただけでも随分と丸くなったものだな、と自分で思ったのだった。
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